春のぽかぽかとした幸せな陽気もすっかり過ぎ去り、少し歩けば汗の滲む六月。新学期や新生活が始まった人たちも少し落ち着き始めた季節。
「やーだー! ゆーくん、リモコンかえして!」
実際のところ、賑やかなのは十一男の侑介と末弟の弥だけ。そんな二人を微笑ましげに見つめる長男雅臣と、迷惑そうに眉間に皺を寄せる次男の右京の間で、朝日奈家ただ一人の姉妹である絵麻は苦笑いを浮かべながら宙を舞うテレビのリモコンを眺めていた。
「どうしたの?」
そうなのだ。ついさっきまでリビングのソファーに沈み込むようにして居たはずの三男、要の姿がどこにも見当たらない。騒がしい二人の声に掻き消されて、彼が部屋を出て行く音が耳に入らなかったようだ。
「要? ああ、本当だね。いなくなってる。心配しなくても、きっと要なら彼女のところだよ」
雅臣がさらっと発した言葉に、驚きのあまり声を上げてしまう。その大きさに、今度は侑介と弥が驚いてしまったのか、目をぱちくりと瞬かせ絵麻を見つめていた。
「え、なんでそんなにびっくりしてるの?」
ちゃらちゃらとしていて軟派で、女性を見つけては口説きにかかるあの三男に、まさか恋人がいると聞いて驚くなと言う方が無理だ。声を上げてしまうのも仕方がないことじゃないか。そう目を丸めながら思う絵麻の隣で、ふぅっとどこかめんどくさそうな溜息が響いた。
「雅臣兄さん。そんな言い方をして、彼女が勘違いをしていますよ」
「勘違い……?」と首を傾げる絵麻に、呆れた表情を隠そうとしない右京が「そうです、勘違いです」と念を押すように答える。
「“彼女”と言うのはつまり……」
右京の言葉を遮り、侑介が聞き覚えのない名前を口に出した。彼の“姉ェ”という言葉に反応を示した弥も「ちゃん?
「……さん?」
道路を挟んだ向かいの光景を思い出しながら、こくりと絵麻が頷く。それを確認した雅臣が穏やかな笑みを浮かべながら言葉を続けた。
「そこの二階に住んでる女性なんだけどね。えっと……なんて説明をしたらいいのかな?」
説明を始めようとしたのはいいが、なんと言葉にしていいのやら……そんな心の中がありありと見える雅臣に代わり、小さく息を吐いた右京が口を開いた。
ピンポーンと間延びのしたチャイムの音が、チャコールグレーの扉越しに聞こえる。耳を澄ましながらもう一度、扉の隣に設置された呼び鈴に添えた指に力を入れる。
ピンポーン
変わらない呼び鈴の音。続いてかすかに聞こえる、パタ……パタ……とひどく緩慢な足音に、朝日奈要は眉を下げて目を細め、そしてその形の良い口元を綻ばせた。苦笑、と言った方が正しいかもしれない。
「ん、起きたか。おはよ」
消えてしまいそうに小さな声が、ほんの少しだけ開いた扉の隙間から聞こえる。
「もうとっくにお昼まわっちゃってるけど……って、今更か。飯食った?」
ふっと困ったように笑って、要の指が扉の隙間にするりと滑り込む。
「…………コーヒー」
ほわりと綻ぶように笑って、がキッチンへと消えてゆく。間もおかずに、カチャカチャとマグと湯呑みを用意する音が聞こえ始めた。そのひとつひとつの動きがひどく緩やかで、要は仕方がないなとばかりに下ろしたばかりの腰を上げた。
「最近、調子はどう?」
くるりと振り返ったの頬は、室内の薄暗さも相まってか青く見える。どう考えても調子が良いとは思えないが、少し首を傾げて考え込んだは、「わるくないよ?」と答えた。要もわかっているのか「そっか」と息を吐くように呟く。
「俺が淹れるから、は座ってな」
流れるような動きでの手からケトルと奪い、もう片方の手で彼女をダイニングチェアへと座らせる。きしりとチェアの脚が軋んだ。あれほどまでに折れそうに細い身体でも、人間としての重みはあるようだ。そのことに安堵したかのように目を細めた要は、彼女が用意した急須へとお湯を注ぐと、続いて、まるで勝手知ったる我が家のように棚を漁り、インスタントコーヒーの瓶を手に取る。
「ああ、そうだ。今日のお昼は妹ちゃんのお手製だから期待して……って」
振り返った要が言葉を切り、ふぅっと深い溜息を吐き出した。
「悪くないって……相変わらずだね、は」
そう独りごちた要は、ダイニングテーブルに突っ伏すようにして寝息をたてるを見下ろす。
「ナルコレプシー?」
どこかで聞いた覚えはあるが、その言葉の意味を理解できない。そう言いたげな絵麻の呟きに、雅臣が小さく頷いた。
「睡眠障害の一種だよ。突然の眠気に襲われて、何の前触れもなく眠ってしまう病気なんだ。時も場所も関係なく、例えば食事中でも歩いている途中でだって急に眠っちゃうんだ」
「あ……」と絵麻が小さく声を上げる。
「それなら聞いたことがあります。その病気をさんが……?」
右京の呟きに「そうだね」と雅臣も頷く。
「ぅ……ん……」
オフホワイトのカバーに包まれた羽毛布団がもぞりと動き、それにあわせて小さな呻き声が聞こえた。
「お、目が覚めたか」
謝罪の言葉の最後の一文字が、要の長い指先に吸い込まれて消える。唇に触れる指先が温かく感じる。案の定、「唇まで冷たい」と要が心配そうに呟いた。
「あれからもう五年か……早いもんだね」
寝室の天井を見上げて静かに語る横顔を、はぼんやりとした瞳で見つめる。彼の言う“あれ”について記憶を五年前へと遡らせてみたは、自分の記憶が曖昧にぼやけていることを改めて実感した。
「痛かった……」
素直にそう口に出すと、要の表情が曇る。
「」
事故がきっかけなのかはわからないが、その頃からの“病気”は始まった。
「でも……おかげでカナちゃんたちと会えた、ね?」
もぞりと布団から這い出たが、細い細い首を傾げながら微笑んだ。
「そう思ってくれるならさ、。やっぱり一緒に」
今度はの指が要の唇に触れる。ゆるゆると首を横に振るに、要の眉間の皺が濃くなった。
不幸な事故で亡くなったの父親は、朝日奈兄弟の母親である朝日奈美和の経営するアパレルメーカーの取引先にあたる会社に勤めていた。もちろん彼とその妻が亡くなったという報せは美和の元へも届き、そして参列した葬儀の席での存在を耳にしたのだと、退院したの元を訪れた美和の口から直接聞いたのも五年前。
――あなたさえ良ければ……私の、娘になってくれないかしら。
全てを包み込んでくれるような、柔らかで労るような美和の表情が脳裏にこびりついて離れない。
「そう……思ってくれるだけで、じゅうぶん」
こくりとが頷く。
「も頑固だね。でも、そういうとこも好きだけどね」
ふわりとが微笑む。
「あーあ……やっぱり敵わないよなぁ」
細い腕を掴んで引き寄せて、力を籠めれば折れてしまいそうな身体を抱き締める。肩口に流れる髪に顔を埋めた要は、微かに感じる消毒薬の匂いに眉根を寄せた。
その髪が纏う香りはいつも僕の邪魔をする
それは彼女に纏わりついて離れない気配。
「カナちゃん……いたい、よ?」
抱き締める腕に力が入っていたようだ。無意識の行為に対して、が小さな声を上げる。
「ごめん……」
要のかすれた声。謝罪の言葉に対して、それでも緩まない腕。
「……大丈夫だよ」
囁く声に、要は眉間に刻んだ皺をより濃くした。腕に力が籠もる。
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