春のぽかぽかとした幸せな陽気もすっかり過ぎ去り、少し歩けば汗の滲む六月。新学期や新生活が始まった人たちも少し落ち着き始めた季節。
 だが、ここ、朝日奈家では落ち着きという言葉は皆無のようで、休日のせいか昼間だと言うのに、サンライズ・レジデンスの五階にあるリビングには、わいわいと賑やかな声が響き渡っていた。

「やーだー! ゆーくん、リモコンかえして!」
「うっせーよ、弥。オメーさっきまでずーっとアニメ観てただろーが!」

 実際のところ、賑やかなのは十一男の侑介と末弟の弥だけ。そんな二人を微笑ましげに見つめる長男雅臣と、迷惑そうに眉間に皺を寄せる次男の右京の間で、朝日奈家ただ一人の姉妹である絵麻は苦笑いを浮かべながら宙を舞うテレビのリモコンを眺めていた。
 だんだんとヒートアップする二人と、それに伴って眉間の皺が濃くなってゆく右京。これは非常に良くないと慌てて止めに入ろうとした絵麻だったが、ふとあることに気づき首を傾げた。

「どうしたの?」
「え? あ、いえ……要さんの姿が見当たらないと思って。どこに行ったんでしょうか?」

 そうなのだ。ついさっきまでリビングのソファーに沈み込むようにして居たはずの三男、要の姿がどこにも見当たらない。騒がしい二人の声に掻き消されて、彼が部屋を出て行く音が耳に入らなかったようだ。
 普段であれば、一言二言――それどころか余計なセリフを三言も四言も言って困らせてくる彼が、まるで逃げるように黙ったまま立ち去ったことに、絵麻は疑問に思ったことをそのまま言葉にした。

「要? ああ、本当だね。いなくなってる。心配しなくても、きっと要なら彼女のところだよ」
「か、彼女!?」

 雅臣がさらっと発した言葉に、驚きのあまり声を上げてしまう。その大きさに、今度は侑介と弥が驚いてしまったのか、目をぱちくりと瞬かせ絵麻を見つめていた。

「え、なんでそんなにびっくりしてるの?」
「な、なんでって……要さん彼女いたんですか?」

 ちゃらちゃらとしていて軟派で、女性を見つけては口説きにかかるあの三男に、まさか恋人がいると聞いて驚くなと言う方が無理だ。声を上げてしまうのも仕方がないことじゃないか。そう目を丸めながら思う絵麻の隣で、ふぅっとどこかめんどくさそうな溜息が響いた。

「雅臣兄さん。そんな言い方をして、彼女が勘違いをしていますよ」

 「勘違い……?」と首を傾げる絵麻に、呆れた表情を隠そうとしない右京が「そうです、勘違いです」と念を押すように答える。

「“彼女”と言うのはつまり……」
「ああ、姉ェのことだろ?」

 右京の言葉を遮り、侑介が聞き覚えのない名前を口に出した。彼の“姉ェ”という言葉に反応を示した弥も「ちゃん?
 ちゃんがどうしたの?」と大きな目をキラキラとさせながら侑介の肩口からひょこりと顔をのぞかせる。

……さん?」
「うん、そう。さん。このマンションの向かいに、小さなアパートがあるでしょ?」

 道路を挟んだ向かいの光景を思い出しながら、こくりと絵麻が頷く。それを確認した雅臣が穏やかな笑みを浮かべながら言葉を続けた。

「そこの二階に住んでる女性なんだけどね。えっと……なんて説明をしたらいいのかな?」

 説明を始めようとしたのはいいが、なんと言葉にしていいのやら……そんな心の中がありありと見える雅臣に代わり、小さく息を吐いた右京が口を開いた。









 ピンポーンと間延びのしたチャイムの音が、チャコールグレーの扉越しに聞こえる。耳を澄ましながらもう一度、扉の隣に設置された呼び鈴に添えた指に力を入れる。

 ピンポーン

 変わらない呼び鈴の音。続いてかすかに聞こえる、パタ……パタ……とひどく緩慢な足音に、朝日奈要は眉を下げて目を細め、そしてその形の良い口元を綻ばせた。苦笑、と言った方が正しいかもしれない。
 鍵が開く音がし、キィッと扉が押し開けられる。

「ん、起きたか。おはよ」
「……カナちゃん。うん……おはよう」

 消えてしまいそうに小さな声が、ほんの少しだけ開いた扉の隙間から聞こえる。

「もうとっくにお昼まわっちゃってるけど……って、今更か。飯食った?」
「…………まだ」
「だと思った。入るよ、

 ふっと困ったように笑って、要の指が扉の隙間にするりと滑り込む。
 蝶番が軋む小さな音。大きく開いた扉から容赦なく差し込んでくる日差しに、と呼ばれた女性は淡い茶色の瞳を眩しそうに細めた。



「…………コーヒー」
「うん、飲むよ。あと、自分用に熱い緑茶を淹れておいで。今日はダシ巻き卵とサケのおにぎりだよ」
「ダシ巻き……好き」

 ほわりと綻ぶように笑って、がキッチンへと消えてゆく。間もおかずに、カチャカチャとマグと湯呑みを用意する音が聞こえ始めた。そのひとつひとつの動きがひどく緩やかで、要は仕方がないなとばかりに下ろしたばかりの腰を上げた。
 キッチンの入り口にかかった暖簾をくぐると、シンクの前に立つの背中が見えた。小さな、と言うよりも細い背中だ。身長は小学五年生の弥よりも十センチかそこらくらいしか高くなく、それでも弥のような子ども特有のふにふにとした身体つきはしていない。薄手のカーディガンのせいか、嫌でも目に入ってしまう細い肩と腕。穿いているグレーのジーンズはスキニータイプなのだろうが、生地が余ってまるでボーイフレンドデニムだ。癖のない細く色素の薄い髪の隙間から覗く首筋も、骨張っていて痛々しい印象を受ける。

「最近、調子はどう?」
「ちょうし……」

 くるりと振り返ったの頬は、室内の薄暗さも相まってか青く見える。どう考えても調子が良いとは思えないが、少し首を傾げて考え込んだは、「わるくないよ?」と答えた。要もわかっているのか「そっか」と息を吐くように呟く。
 ピーッとケトルがお湯が沸いたことを知らせた。

「俺が淹れるから、は座ってな」
「え……でも……」
「オニーサンに任せなさいって」

 流れるような動きでの手からケトルと奪い、もう片方の手で彼女をダイニングチェアへと座らせる。きしりとチェアの脚が軋んだ。あれほどまでに折れそうに細い身体でも、人間としての重みはあるようだ。そのことに安堵したかのように目を細めた要は、彼女が用意した急須へとお湯を注ぐと、続いて、まるで勝手知ったる我が家のように棚を漁り、インスタントコーヒーの瓶を手に取る。

「ああ、そうだ。今日のお昼は妹ちゃんのお手製だから期待して……って」

 振り返った要が言葉を切り、ふぅっと深い溜息を吐き出した。

「悪くないって……相変わらずだね、は」

 そう独りごちた要は、ダイニングテーブルに突っ伏すようにして寝息をたてるを見下ろす。
 起こしてしまわないようにそっと瓶を置き、空いてしまった手を彼女の髪へと滑らせる。指の一本一本に絡みつくような、しっとりとした手触りだ。
 何度か手を往復させた要は、その一房をすくい上げるとそっと唇を寄せた。








「ナルコレプシー?」

 どこかで聞いた覚えはあるが、その言葉の意味を理解できない。そう言いたげな絵麻の呟きに、雅臣が小さく頷いた。

「睡眠障害の一種だよ。突然の眠気に襲われて、何の前触れもなく眠ってしまう病気なんだ。時も場所も関係なく、例えば食事中でも歩いている途中でだって急に眠っちゃうんだ」

 「あ……」と絵麻が小さく声を上げる。

「それなら聞いたことがあります。その病気をさんが……?」
「ええ。もう何年になるでしょうか」

 右京の呟きに「そうだね」と雅臣も頷く。
 どこか遠い場所を見ているような二人の視線に、絵麻はそれ以上深く聞いて良いものなのかと思案し、その結果口を噤んだままじっと二人の横顔を見つめるのだった。









「ぅ……ん……」

 オフホワイトのカバーに包まれた羽毛布団がもぞりと動き、それにあわせて小さな呻き声が聞こえた。

「お、目が覚めたか」
「……カナちゃん……わたし、また……ゴメ」

 謝罪の言葉の最後の一文字が、要の長い指先に吸い込まれて消える。唇に触れる指先が温かく感じる。案の定、「唇まで冷たい」と要が心配そうに呟いた。

「あれからもう五年か……早いもんだね」
「…………」

 寝室の天井を見上げて静かに語る横顔を、はぼんやりとした瞳で見つめる。彼の言う“あれ”について記憶を五年前へと遡らせてみたは、自分の記憶が曖昧にぼやけていることを改めて実感した。
 思い出せるのは、車の急ブレーキの音と、視界一杯に広がる突き抜ける青空。それから滲んだ視界を侵食する濃い赤。

「痛かった……」

 素直にそう口に出すと、要の表情が曇る。
 交通事故に遭ったんだよ、と意識が戻った病院の病室で医者から説明をされた。車外に放り出された自分だけが奇跡的に一命をとり止めたけれど、運転席の父親と助手席の母親は――


「ん……だいじょぶ。ちょっと……ぼんやりしてた、だけ」

 事故がきっかけなのかはわからないが、その頃からの“病気”は始まった。
 通学途中の道で、駅で、電車の中で。授業中、休み時間、放課後。就職してからもそれは変わらなかった。ある時など、家の前でドアに手を掛けながら眠っていたこともある。思い出すほどに、滑稽だったな、とはぼんやりと思った。

「でも……おかげでカナちゃんたちと会えた、ね?」

 もぞりと布団から這い出たが、細い細い首を傾げながら微笑んだ。

「そう思ってくれるならさ、。やっぱり一緒に」

 今度はの指が要の唇に触れる。ゆるゆると首を横に振るに、要の眉間の皺が濃くなった。

 不幸な事故で亡くなったの父親は、朝日奈兄弟の母親である朝日奈美和の経営するアパレルメーカーの取引先にあたる会社に勤めていた。もちろん彼とその妻が亡くなったという報せは美和の元へも届き、そして参列した葬儀の席での存在を耳にしたのだと、退院したの元を訪れた美和の口から直接聞いたのも五年前。

 ――あなたさえ良ければ……私の、娘になってくれないかしら。

 全てを包み込んでくれるような、柔らかで労るような美和の表情が脳裏にこびりついて離れない。

「そう……思ってくれるだけで、じゅうぶん」
のことが心配なんだって言っても?」

 こくりとが頷く。
 このやりとりももう何回目になるか、数え切れないなと要は苦笑いを浮かべた。

も頑固だね。でも、そういうとこも好きだけどね」
「うん……わたしも。優しいカナちゃん……好き、だよ」

 ふわりとが微笑む。

「あーあ……やっぱり敵わないよなぁ」
「カナちゃ……」

 細い腕を掴んで引き寄せて、力を籠めれば折れてしまいそうな身体を抱き締める。肩口に流れる髪に顔を埋めた要は、微かに感じる消毒薬の匂いに眉根を寄せた。


















 それは彼女に纏わりついて離れない気配。

「カナちゃん……いたい、よ?」

 抱き締める腕に力が入っていたようだ。無意識の行為に対して、が小さな声を上げる。

「ごめん……」

 要のかすれた声。謝罪の言葉に対して、それでも緩まない腕。

「……大丈夫だよ」

 囁く声に、要は眉間に刻んだ皺をより濃くした。腕に力が籠もる。
 きしりと軋んだのは、の体か――それとも要の心か。 







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