可能な限り、外出はしたくない。
 なぜなら、迷惑をかけてしまうから。
 急激な眠気に抗えずに倒れるように眠ってしまった自分を覗き込む、今にも泣き出してしまいそうなあの表情を見たくはないから。折角の綺麗な茶色の瞳が不安と動揺の色で染まるのを、もう見たくはないから。

 それでも……




「ゴミ出しくらいは……しなきゃ、ね」

 透明なゴミ袋を両手に持って、はアパートの階段をゆっくりと降りて行く。左右の手にはひとつずつ、生活ゴミと仕事柄どうしても出てしまうゴミがパンパンに詰め込まれている。とても重い。カン……カン……と、ひどく緩慢なリズムが響く。

「あの」

 踊り場まで到着した瞬間、階段の下からまだ若い少女のような声が聞こえた。その声が自分に向けられているものだとは考え及ばないだったが、なぜか声の主の正体が気にってしまう。様子を窺うように鉄製の手摺から少し身を乗り出すと、一人の少女が心配そうな表情を浮かべ上を見上げていた。
 高校生くらいだろうか。サイドポニーに結い上げた髪がとてもよく似合っている。が故に、パーカーとクロップドパンツといういでたちがなんとも味気なく感じてしまう。癖のあるふわふわの髪には、同じようにふわふわのワンピースが似合うんじゃないだろうか。淡い色合いのものがいい。それから、まだ肌寒いから上着も必要だ。こちらは少しフォーマルなものがバランスが取れて――

「あの……大丈夫ですか?」

 ハッと気付くと、階段下にいたはずの少女が目の前に立っていた。驚きあまりぼんやりとしていた目を見開いてしまう。

「え……」
「あ、いえ、その……重そうだったのでお手伝いを、と思ったんですが……」

 ご迷惑でしたか? と気遣うような声に、は思わずぶんぶんと首を横に振った。迷惑だなんてとんでもない、と。少女があからさまにホッとした笑みを浮かべる。だが、さすがに生活ゴミを渡すのは気が引けた。だからと言ってもう片方はと言えば、見た目に反して結構な重さがある。毎日顔を出してくる要にならまだしも、女の子に持たせるのは。

「下のゴミ捨て場でいいんですよね?」
「え……あ…………」

 どちらを渡すべきかと悩んでいると、少女はの両手からゴミ袋を取り上げ、さっさと階段を降りて行ってしまった。ドサドサと大きな収集バケツに放り込む音が聞こえる。慌てて、とは言ってもの緩慢な動きは変わらない。ゆっくりと、でも出来るだけ早足で階段を降り、「これでよし」と独りごちている少女の目の前へと立った。

「あり、がと……助かりました」
「いえ、とんでもないです。重そうだったのでつい。突然声をかけてすみません」

 恐縮する少女に、はまたもや大きく首を振った。少女がふっと表情を崩し、安堵するように微笑む。

「ではこれで。朝食の準備があるので、失礼し――」
「妹ちゃん?」
「え? か、要さん」

 突然声をかけられたことに驚いたのか、少女が勢いよく振り返る。
 早朝ランニングから帰ってきたところなのだろう。額から流れる汗をタオルで拭った要は、キラキラとした笑顔を浮かべて少女のもとへと駆け寄ってきた。

「今朝もカワイイね。ゴミ出ししてたの? 大丈夫? 俺も手伝おっか?」
「いえ、もう終わりましたから結構です。必要ありませんから」
「相変わらずキツイねぇ。でも、そんなところも、とってもカワイイんだけど」

 迷惑そうな表情を隠すことなく、少女が要の戯言にも似た言葉をかわしていく。

「……妹、ちゃん?」

 そんな二人のやり取りを見つめているんだか見つめていないんだか、ぼうっとした瞳で眺めながらが小さな声でそう呟いた。「へ?」と間の抜けた要の声が耳に届く。少女の背中に隠れて見えていなかったのだろう。「ありゃ、いつの間に」と少しだけ驚きを含んだ声が聞こえた。

「ずっと、いた。カナちゃんが来るより早く」
「ゴメンゴメン。妹ちゃんに隠れて見えてなかった」
「ん……」

 わしゃわしゃと髪を掻き乱すように撫でてくる要にされるがままのの目に、呆気に取られたような少女の姿が映りこんだ。

「要さんのお知り合いですか?」
「カナちゃん……、妹ちゃん?」

 少女とが同時に口を開いた。それはどちらも要に対して向けられたもので、当の要はというと「えーっと、うん」と、どちらへかもわからない回答を口にした。



「はじめまして、さん。朝日奈絵麻です」
「藤堂、です……。よろしく、ね。妹ちゃん」

 要から互いを紹介され、まずは絵麻が自己紹介をする。それに対してのの言葉に、絵麻は苦笑いを浮かべた。

。“妹ちゃん”は俺の専売特許なの。ほら、妹ちゃんだって俺以外にそんな風に呼ばれるのは気に食わないみたいよ?」
「できれば、要さんにもやめてもらいたいんですが」
「じゃあ……エマちゃん」

 相変わらず辛辣な言葉を吐く絵麻に、要が肩を落とす。その隣で小首を傾げていたは、絵麻を見上げると、ふわりと微笑みながらそう呼んだのだった。満足そうに、そして嬉しそうに、絵麻も笑みを返す。が、その笑みはすぐに「いけない」とばかりに崩れてしまった。

「あっ、もう戻らないと。右京さんに任せたままになっちゃう」
「あ……待って、エマちゃん」

 マンションへと戻ろうとする絵麻の手を、普段の動きからは想像も出来ない早さでが取った。これには要も少なからず驚いているようだ。

「……今日、ひま?」
「え?」

 の質問の意図が読めず、絵麻が間の抜けた声を上げる。再びが「ひま?」と口にした。

「えっと……朝食が終われば、特に予定はありませんが」
「よかった……」

 ほわり。が微笑む。つられるようにして絵麻も微笑むが、何せの質問の意図が読めないのだ。再び首を傾げる。

「ごはん終わったら……ここ、来て」
「えっと……」

 困ったようにたじろぐ絵麻の肩に、要の手が乗った。

のお願い聞いてあげてよ、妹ちゃん。コイツがこんな風に押すのって珍しいんだ」
「えっと……じゃ、じゃあ……わかりました」

 頷く絵麻に「良かった、嬉しい」とが喜ぶ。早速とばかりに、はポケットから携帯電話を取り出した。彼女の目にはもう、絵麻も要も映っていないようだ。
 どこかにコールしながら、ゆっくりと階段を上がっていくの姿を、絵麻は呆気に取られたように見上げるのだった。








「こんな感じ、かな?」
「……似合う。でも……もうちょっと、サイド」
「こう?」
「うん、いい。それと……コレつけて」
「うん、いいね。新作?」
「……昨日、できた」

 なぜこんなことになっているんだろうか。絵麻は鏡に映る自分の姿と、その背後にいる二人の人物を見つめる。

 朝食の後片付けも終わった絵麻は、要に教えられたとおり、アパート二階の一番奥のチャイムを押した。「出てこなかったら思いっきりドア叩いて」と言われてはいたものの、数秒もしないうちに扉が開かれ、そして手を引いて連れてこられたのは、朝日奈家八男、琉生が働く美容室だった。「予約、した。心配しないで、ね?」と言われるも、絵麻は問題はそこじゃないと心の中でつっこむ。そして、席に案内されたかと思えば、あれよあれよと言う間に――

「エマちゃん……いい。とっても、カワイイ」
「うん、よく似合ってる。ちぃちゃん、とってもカワイイ」
「あ……ありがとうございます」

 ふんわりと結い上げられた髪は、彼らが言うとおり絵麻にとてもよく似合っていた。
 両サイドをざっくりと大きく編み込み、高い位置にレースリボンで纏める。リボンの根元にダリアをモチーフにした髪留めを付ければ、ふわふわと甘いへアースタイルの出来上がりだ。

「メイク、どうする?」
「……もう、春。だから桜色」
「うん。僕も同じこと、考えてた。ちょうど春の新色、出た」

 声や見た目に違いはあれど、話し方や雰囲気が似ている二人を、絵麻は無意識に目で追っていた。
 あっという間に終わったヘアーメイクよりも、これから始まるであろうメイクよりも、気になるのは二人の存在。二人が纏うどこか不思議な空気は、絵麻の興味を引くのに十分だった。

「終わったよ、ちぃちゃん」
「え?」
「じゃ、次……これ、ね?」

 ぼんやりと考え事をしている間にメイクは終わったらしい。掛けられた声に振り返ると、琉生がにっこりと微笑んでいた。そして鏡を見る暇もなく、から大きな紙袋を手渡される。それは、家を出る時から気になっていたものだ。

さん。この中身って」
「ちぃちゃん。こっち」

 「なんですか?」と尋ねる前に、琉生が絵麻を呼ぶ。結局中身を知ることのないまま、案内されるままに奥の着付けルームへと通されてしまった。
 「着替え終わったら出てきて」と琉生に言われ、着替え?と首を傾げながら紙袋の中身を取り出す。

「っ! わぁ……素敵」

 取り出したものを両手で広げた絵麻は、無意識に声を上げていた。口元が綻ぶのがわかる。目を輝かせた絵麻は、急いで着ていた服のボタンへと指をかけたのだった。



さん。着替え終わりました。……あ」

 慣れないヒールにもたつきながら出てきた絵麻が小さく声を上げるが、すぐに両手で口元を押さえた。琉生が口元に人差し指を当て「シー」と言ったからだ。

「眠っちゃったんですか?」
「うん。満足したから、だと思う」

 絵麻を着付けルームに残し戻ってきた琉生は、眠そうに目を擦るが言った言葉を思い出し目を細めた。

「絶対似合うって言ってた。うん、ホント、よく似合ってる。ちぃちゃん、カワイイ」

 光沢のあるエクリュベージュのシフォンワンピースと、ノーカラーのデニムジャケット。ワンピースのウエストはレザーのメッシュベルトで絞られていて、女性らしいラインを際立たせており、ジャケットの丈との相性も抜群のようだ。足元はベルトと同じ色味のブーティー。ヒールは高めで少し大人っぽい印象である。

「あ、ありがとうございます」

 微笑む琉生に、絵麻は照れくさそうに礼を言うと、すやすやと寝息をたてるの顔を覗き込んだ。小さく声を漏らす絵麻に、「ちゃんも、カワイくしてみた」と琉生が言う。
 結うこともせず背中に流されていたストレートの髪が、くるくるふわふわと綺麗なウェーブを描いている。もう一度「わぁ」と声を上げた絵麻は、まじまじとを見つめた。
 淡いブラウンの髪と同じ色の長い睫毛。白い肌と細い手足。小さな背。

「かわいい……。おとぎ話にでも出てきそうですね」

 言ってしまったセリフが恥ずかしかったのか、絵麻は頬を赤らめるが、琉生は特に気にした様子もなく頷いた。

「『スリーピングビューティー』。ね、ちぃちゃん。その服のタグ、見た?」
「え? いえ、見てないです」

 そう答えた絵麻の手から紙袋を受け取った琉生は、一枚の不織布の袋を取り出した。デニムジャケットが入っていた袋だ。その中心に描かれたイラストと、筆記体で書かれたブランド名のような文字に、絵麻が目を瞠った。

「『Sleeping Beauty』?」
ちゃんのブランド名。名付け親は、要兄さん」
「え?」
「その服、ちゃんがデザインした。ちゃんは、母さんの会社の、デザイナーさん」

 ああ、だから……と絵麻は思った。
 今朝、が重そうにして持っていたゴミ袋の片割れ。そこにはぐしゃぐしゃに丸められた紙や、色とりどりのはぎれが詰め込まれていた。なるほどそういうことか、と絵麻は視線を宙へと投げ出した。

「あ、ちゃん。起きた?」
「……ルイ……うん、おはよ……」

 まだ眠気を残した声と共に、ソファーがきしりと軋む。息を飲む音に、絵麻が視線を下げたその時だった。きゅっと腰に巻きつく腕の感触に、今度は絵麻が息を飲む。ふわふわとした髪が頬に当たってくすぐったい。

「……思ったとおり」

 ふわりと甘い整髪料の匂いが鼻をかすめた。

「エマちゃん、とっても、カワイイ」

 囁くような小さな声。
 見開いた絵麻の瞳には、整髪料と同じ、甘い甘いとろけるようなの笑みが映りこんでいた。 

















 すっかり暗くなった夜道を、二人手を繋いで歩く。
 仕事が残っている琉生は「送れなくて、ごめん」と少し心配そうだったが、まだ夕方と言っても差し障りのない時間帯だ。丁寧に礼を言い、二人揃って店を出たのは数分前のこと。
 少しだけ遠回り、と言って入った公園を、二人してゆっくりと歩いていた。

「あ、いたいた。妹ちゃん、
「カナちゃん……」
「え? どうして要さんが」
「るーちゃんからメールが来てね。心配だから迎えにきてあげってって。来て正解。こんなにカワイイ子がふたりも歩いてたら、野獣どもがうじゃうじゃ寄ってきちゃうだろうからね」

 パチンとウインクをしながらそう言う要に、絵麻はどこか胡散臭そうな視線を向け、「今まさしく野獣と対峙してる気分なんですが」と呟く。「やっぱりキツイねぇ」と苦笑いを浮かべる要は、ふと絵麻の隣に立つへと視線を向けた。

「お、いいね。お前もるーちゃんにやってもらったの? ん、かわいいかわいい」

 要が手を伸ばし、の頭を撫でる。朝の力任せなそれとは違い、優しい手つきだ。髪型を崩してしまわないよう配慮しているのだろう。されるがままのも気持ち良さそうに目を細めている。喉を鳴らさんばかりの表情に、まるで猫みたいだな、と絵麻は思った。

「さぁ、姫たち。城へと帰りましょうか」

 仰々しく腰を折り、要がスッと右手を差し伸べる。呆れたように溜息を吐く絵麻とは違い、は躊躇うことなく要の手を取った。きゅっと握りこみ、要が歩き出す。それが自然なことのようにも歩き出し、そんなと手を繋いだままの絵麻も誘われるように一歩踏み出した。

「今日の夕飯はビーフストロガノフだってさ。京兄が、お前も連れてこいって言ってたよ」
「ビーフ、ストロガノフ。……強そう、だね」

 噛み合わない二人の会話に、絵麻が思わずふき出した。「え? いきなりどうしたの、妹ちゃん」と要が言うも、絵麻の笑いは止まらない。

 クスクスと笑う絵麻の笑い声と、「なになに、どうしたの」と不思議そうな要の声。その間を歩くの口元には、夜空に浮かぶ三日月のような、綺麗な弧が描かれていた。







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