車には乗れないから、移動はできるだけ徒歩で。
 遠出をする時には電車を。
 それでもやっぱり“乗り物”というだけで、不安と恐怖が嫌でも胸をざわつかせる。

 きっと今の自分の顔色は、周りの目から見て最悪なのだろう。ちらりちらりと様子を窺うような視線が、紙袋を抱き締めるようにして座席で小さくなるへと注がれている。ついさっきなど、「大丈夫ですか? 車掌さん呼びましょうか?」などと若いOL風の女性に声をかけられたところだ。
 息苦しさを感じ、ダッフルコートのボタンを寛げると、無意識にほうっと溜息が出た。

「(やっぱり……誰か、ついてきてもらった方がよかった、かな?)」

 そんな風に考えながら、“誰か”を思い浮かべる。派手な金髪に、派手な袈裟。シルバーアクセサリーをじゃらじゃらと身に着けた姿が頭の中に浮かんだ。が、一瞬にしてその姿が掻き消える。今日のこの外出は、要にバレてはいけないのだ。
 きゅっと唇を噛み締め、抱き締めた紙袋の中身をそっと覗きこむ。白の薄葉紙から透けて見える色を視界に入れたは、微笑むように目を細めた。
 その瞬間だった。

「ぁ……」

 くらりと一瞬、視界が歪んだ。薬は服用済みで、眠気がするわけではない。どうやら電車の揺れに酔ってしまったようだ。くらくらと体が揺れる。気持ちが悪い。
 車内アナウンスが流れ、停車駅に到着する。快速電車に乗らなくて良かった、などと思いながらふらふらとした足取りでホームへと降り立った。とりあえず外の空気を吸えば落ち着くだろうと、ベンチに向かってゆく。

「ふぅー……」

 ベンチに腰掛け大きく息を吐き出すと、少しだけ楽になった気がする。ひんやりとした空気が心地良い。すぅっと息を吸い込みながら空を見上げると、雲ひとつない青空が広がっていた。

「おい」

 暖かい陽の光が何かに遮られ、の顔に影がかかる。明らかに自分に向けられた声は、聞き覚えのあるものだったが、その声の主はが振り返るよりも早く次の言葉を紡いだ。

「オマエ、こんなところで何してんだ」
「……なっちゃん」
「一人か? かな兄はどうした」
「カナ、ちゃん?」

 どうして? とでも言いたげなの表情に、朝日奈家七男、棗がハァっと深い溜息を吐いた。

「一人で出かけて、あとで怒られてもしらねーぞ」

 棗の言葉に、うーんと首を傾げていたが「なるほど」と手を打った。

「なっちゃん……。心配、ありがと」
「……ハァ」

 やっぱりコイツは苦手だ、と棗は思う。琉生と似た不思議な空気を纏っているが、琉生以上に何を考えているかわからないのだ。三番目の兄に言わせれば“一番わかりやすい”らしいが、棗にはその言葉の意味すら理解できない。

「あのね……今日はカナちゃん、一緒じゃダメな日」
「は? ああ、法事にでも行ってるのか」

 不在なら仕方ないな、と要は納得するが、「ちがう」とが否定する。

「カナちゃん、今日はお休み。家にいるって言ってた」
「じゃあ、なんで一人なんだよ」

 苛立ちが徐々につのり、無意識に棘のある言い方をしてしまう。だが、は気にも留めていないのか、じっと手元にある紙袋の中を見つめていた。ベンチに座るを見下ろすような形で、棗も紙袋の中身を覗き込む。

「なんだ、これ。布か?」
「美和さ……あ、社長が取り寄せてくれた、シルク生地」
「母さんが?」

 こくりとが頷く。

 連絡があったのは昨夜。
 以前から“個人的に欲しいものがある”と、お願いという名のおねだりをしていた品で、仕入れに行っていたバイヤーが買いつけてきたと美和からメールがあった。写真を見るなり一目で気に入り、わざわざ宅配便で送ると言われたにも関わらず、それを待ちきれずにこうやって一人電車に揺られていたのだと話すに、棗は呆れたように目を細めた。

「で? その生地で、かな兄に何作るんだ?」

 の隣に腰掛けた棗が、タバコに火を点け一口吸い込んだ。そんな彼の横顔を、はじぃっと見つめる。普段はぼんやりとしている目が、ほんのわずかに見開かれていた。

「あのな……今の話とソレ見せられて、わからないワケないだろ」
「……そういう、もの?」
「そういうものなの」

 カサリと紙が擦れ合う音が小さく響いた。薄葉紙の包みを取り出したは、それを膝の上で広げると、ふっと笑みを浮かべた。まるで気持ちが安らいだかのような笑みだ。嫌でも視界に入ってくるその色に、まるで眩しいとでも言いたげに棗は目を細める。

「この色……アコナイトバイオレット。なっちゃん、知ってる?」
「俺が知ってるとでも?」

 ふるふるとが首を振る。「このヤロ」と思うが、棗は口に出さなかった。出したところで無駄なことはわかっているので、口角を引き攣らせるだけに留める。

「アコナイトは、トリカブトのこと」
「トリカブトってあの毒草のか?」
「うん、そう。トリカブト……カナちゃん、みたい」
「おまっ、……それ、かな兄が聞いたら怒るんじゃないのか」

 そうは言ったものの、棗は反論できないなと思った。破天荒で軟派者の兄の姿を思い浮かべる。なるほどぴったりだ。思わずニヤリと笑う棗だったが、そんな胸の内を読んだかのように「ちがうよ、なっちゃん」とが呟くように言った。

「トリカブトはね、毒草。だけど、薬にもなる。……たしか、強心と鎮痛。私には両方、必要。だから……カナちゃんは、わたしのトリカブト。いつも一緒じゃないと……困る」
「ハァ……よくもまあ、そんな恥ずかしいことが言えるな」
「はずか、しい……恥ずかしい? そんなことない、よ?」

 本当のことだからと呟き、広げた生地を丁寧に折畳みながらが微笑む。

「……俺も、オマエみたいにはっきり言えりゃ――」

 電車がタイフォンを鳴らしながら駅を通過する。プァーンと間の抜けた音が、棗の呟きを掻き消した。

「……? なっちゃん、今、なにか言った?」

 じっと見上げてくるに、棗はぎょっとした表情を見せるが、それも一瞬のことだった。棗の口角が上がり、大きな手のひらがへと伸びる。わしゃりわしゃりとの髪をひとしきり掻き混ぜた棗は、最後にぽんぽんと頭を軽く叩いた。まるで小さな子どもをあやすかのような手つきだ。

「オマエはかな兄のこと、本当に好きだな、って言ったんだよ」
「うん。カナちゃん、大好き」

 きっぱりと即答するに棗は、またもや大きな溜息を吐いた。

「それ、本人の前で言ってやれ」
「……いつも言ってる、よ?」
「ちなみに聞くが……どんな風にだ?」

 の返答に嫌な予感を感じ、棗は恐る恐るそう尋ねる。うーんと少し首を傾げて悩む素振りを見せたが、「優しいカナちゃん、好き」と、つい先日本人を前にして言ったセリフを口にした。

「なんか俺、かな兄が気の毒になってきた……」

 棗が表情を大きく歪め、ぽつりとそう零す。「気の毒?」と鸚鵡返しのようにが言うが、それに棗が反応することはなかった。

「ねえ、なっちゃん……」
「なんだ」
「なんで……なっちゃん、ここにいる、の?」

 勢いよく振り向いた棗は、これでもかと顔を顰めていた。「オマエ……」と呟く声はわずかに震えているように聞こえる。

「本気でめんどくせぇ!!」

 そんな棗の叫び声は、ホームを通過する回送電車に掻き消されて消えた。









Aconite-Violet








「……あ、なっちゃん」
「今度はなんだ」

 苛立ちを隠さず、吐き捨てるように棗が答える。

「どうしよう。カナちゃんから……電話、きた」

 わずかな焦りを含んだの声とその内容に、棗はひくりと口元を引き攣らせた。ああ、これは自分も巻き込まれるコースだろうかと頭痛のし始めた頭で考える。に会ってしまった時点で巻き込まれたも同然なのだが、棗はあえて考えないように両手で抱えた頭を振った。

「もう……マジでいい加減にしてくれ……」

 深い溜息と共にぽつりと零れた棗の声は、徹夜明けの朝帰りのそれよりも疲弊しきっていたのだった。







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