なんでこんなことになっているんだろう……

 ぼんやりとした瞳で、自分の両手を見つめる。
 視界に入るのは見慣れた青白い手の甲と、それを隠すように包む生成りのレース生地だった。生地は手首から切り返しになっており、そこから肩にかけて赤みの強い珊瑚色のシフォン生地が、彼女の腕をすっぽりと包み込んでいる。
 ハァ、との口から珍しく溜息が零れた。両手から視線を外し、そのまま足元へ。光沢のある真珠色は、が自分でオーダーし染色された物である。足の甲が綺麗に見えるV字のカットと、その周囲を彩る刺繍も、ヒールの高さだってが指示した通りに仕上がっており、文句ひとつ付けようもない。にも関わらず、なぜ彼女の口から重い溜息が零れるのか。
 時計を見上げる。指定された時間まで、あと十分。そろそろ行かないと怒られるかもしれない。溜息と同じくらい重い腰を上げたは、ふわりと脚に纏わりつく生地の感触に「あ……」と小さく声を零した。暗かった表情に、ほんのわずかな光が射し込む。

「この生地……やっぱり正解」

 パタンと閉じた扉の音で掻き消されるくらいの小さな呟きは、の耳にのみ届いたのだった。



「あら? あらあら、良いじゃない!」
「社長……?」
「デザイン画を見た時から、絶対あなたに似合うって思ってたのよー!」
「しゃ、しゃちょ……」
「仕上がったサイズもちょうどXS! モデルの誰も着れなくって。ほんとに残念よねぇ〜」

 全く残念そうじゃない……と、その場にいた全員が小さく溜息を吐く。だが、を前にして目をキラキラと輝かせる美和は、全員の呆れた表情に全く気が付いていないようだ。「やっぱりこの色、良いわねぇ」と、両手で頬を押さえながらニコニコと微笑んでいる。

「社長。撮影の準備が整いました」
「こちらも、モデルのスタンバイ完了です」

 スタッフの言葉に、美和の表情が引き締まった。「わかったわ、ありがとう」と答える声も、先ほどまでのものとは違って、まさしく大企業の社長のそれとなっている。

「それじゃ、ちゃん。よろしくね」
「……はい」

 乗り気でないも、社長としての美和を目の前にしてしまえば「嫌だ」とも言えない。たとえそれが、自分のブランドのモデルの仕事だったとしても、だ。

「なんで、こんな……」
「ほんとだよ、まったく」

 準備が整ったセットの中へ入ったがぽつりと呟くと、すでにスタンバイが完了していた相手モデルが溜息混じりにそう答えた。

「モデルの仕事だって言うから詳しく聞いてみれば、アンタのブランドだったなんて。僕、これでも忙しいんだよ? それなのに、よりによって相手のモデルもアンタなんてね」

 セットのソファーに脚を組んだ状態で腰を掛け、モデルが悪態を吐く。毒のある言葉と言い方だが、はその耳に慣れた声に無意識に固くなっていた表情を綻ばせた。

「なにバカみたいに笑ってんの」
「ううん……フート、来てくれた。嬉しいな、って」
「ハァ……ほんとにバカでしょ。ミワがどうしてもって頼むから、しかたなくなの。し・か・た・な・く。わかってる?」

 長い指先でトントンと額を小突かれ、がきゅっと眉根を寄せて目を瞑る。その瞬間、の相手モデル、朝倉風斗……もとい、朝日奈家十二男である風斗が、ふっと口元に笑みを浮かべた。どこか嬉しそうな笑みだったが、目を閉じていたが気付くことはなかった。




「うん、いいよー。そのままそのまま。あ、風斗くん。今度は目線こっちで」

 カメラマンの声とカメラのシャッターの音が撮影スタジオ内に響く。カメラマンの指示通りに動く風斗は、さすがは大人気アイドルと言ったところか。

「さすが、フート。慣れてる」
「当たり前でしょ。誰に言ってんの? つーか、アンタももうちょっと雰囲気出しなよ」
「……わたし、目閉じてるだけでいいって……言ってた」

 それは撮影前にカメラマンから言われていたことだ。撮影に慣れないのために、ポーズは座っているか寝そべっているかのどちらかで、あとは目を閉じてじっとしていれば良いと指示されている。それに、今日のコンセプトはのブランド『Sleeping Beauty』に倣って『眠れる森の美女』なのだ。カメラマンの指示もあながち間違いではない。
 だが、風斗はそんなの言葉に、綺麗な眉間に皺を寄せると「アンタね……」と舌を打ったのだった。

「ナメてんの? 素人なのはわかってるけど、いくらなんでもヒドイんじゃない?」
「フート?」
「たとえば、さっきの。あれじゃ、ただの居眠りにしか見えない」

 さっきの――とは、城の最奥で永い眠りに就く姫を、王子がキスで目覚めさせるシーンのイメージ撮影。どんな風だったかと思い起こすを前にして、風斗がさらに言葉を続ける。

「それも超マヌケ面。あ、それはいつものことか」

 ぷっと吹き出す風斗に、さすがのも不機嫌そうにむっと眉根を寄せた。

「そんな顔するくらいなら撮り直す?」
「え……」
「すいませーん! さっきのイメージなんですけど、なんだか納得いかなくて。撮り直しってできます?」

 満面に笑みを浮かべてカメラマンのもとへと駆け寄っていく風斗と、呆気に取られてその背中をぼーっと眺めることしかできない。了承されたのか、笑みを浮かべながら戻ってきた風斗に「バカ面してんなよ」と怒られてようやく、は目を瞬かせたのだった。

「それじゃ、さっきのイメージもう一回撮るね。はい、さん。ベッドに横たわってー」

 カメラマンの声に、がおろおろと周囲を見回していると、「ほら、早くしなよ」と風斗の手がの腕を掴んだ。ぐいっと腕を引かれるままにベッドに腰掛ける。

「……? わっ……」

 の口から小さな悲鳴が上がった。体が倒れる感覚と、背中に受けた小さな衝撃。かさりと耳元で鳴る音は、敷き詰められたバラの花弁だということはわかった。反射的に閉じていた瞼を持ち上げる。

「ねえ」
「……??」
「アンタのブランドさ、『Sleeping Beauty』ってんでしょ? だったらそんな不安そうな顔してないで、王女様らしく堂々としなよ」

 風斗の真面目な声がの耳を撫でた。あれだけ悪態を吐いていたというのに、本番となれば途端に真剣になる。そんな風斗に感化を受けたのか、の表情がきゅっと引き締まった。

「そうそう。ほら……目、閉じて。百年後に現れる王子の顔、想像してみなよ」
「…………」

 心なしか優しい風斗の声が耳元で静かに響く。目を閉じていても感じるライトの眩しさが、不意に和らいだ。

「ねえ、誰が浮かんだ?」
「いいね、今のすっごく良く撮れた! さんの表情もすごく良かったよ!」

 風斗の囁く声が耳の中へと流れ込んでくる。
 その瞬間、カメラマンの嬉しそうな声が響いた。目を開けたがきょろきょろと周囲を見回す。すぐ傍にいたはずの風斗の姿はすでにない。どこか重く感じる体を起こしたの視界に、いつの間に離れたのだろう。カメラマンに笑顔でお礼を言いに行く風斗の背中が映った。









Prince of ... ?









 ――ねえ、誰が浮かんだ?

 風斗の声が頭の中で響く。
 撮影後すぐ、風斗はスケジュールが詰まっていると言って、まるで風のように去って行ってしまった。美和も撮影の途中で急用が出来たらしく、が気付いた時にはその姿はどこにもなかった。

「百年後の……王子、さま」

 撮影スタジオを後にしたは、駅へと続く道を歩きながら小さな呟きを零した。幹線道路沿いの道は人通りも多く、の呟きなど簡単に掻き消されてしまう。
 錘が手に刺さって眠りについた王女。魔法使いの呪いがとけるのは百年後。そして百年後、王女の目の前に姿を現したのは――

「だから……なんで一人なの、

 とぼりとぼりと歩く道の先、ようやく駅が見えてきたところで、は頭上から降ってくる呆れを含んだ声に足を止めた。くるりと振り返り、街灯に照らされて立つ人物を視界に入れる。

「……カナ、ちゃん?」

 どうしてここに? とでも言いたげな声色に、要は盛大に溜息を吐いた。

「一人歩きは感心しないって、前に俺言ったよね?」
「ん……言われた。でも、誰も一緒にならなかった、から」

 風斗は次の現場に、美和もスケジュールが詰まっていて忙しい。他のスタッフも全員会社に戻ると言っていたし、そもそも彼らの主な交通手段は車だ。一緒に、などと口が裂けても言えない。

「だったら、どうして連絡してこないの。ふーちゃんが電話くれたから迎えにこれたけど、このまま一人で帰るつもりだったの?」

 こくりと頷くと、要は眉間に深い皺を刻んだ。
 「ごめんなさい」と素直に謝罪の言葉を口にするの頭を、要が手の甲で軽く叩く。

「いたい……」
「自業自得、因果応報ってヤツだね」
「……カナちゃん……おおげさ」

 むぅっと膨れながら呟いた不満の言葉に、要は目を細めると、唐突にの頭をがしりと掴んだ。

「わっ……わわわわ……カナちゃっ……か、カナッ……」
「まったく、この口はいつの間にこんな生意気を言うようになったんだか」

 掴まれたまま大きく腕を振られてはたまったものじゃない。ぐるんぐるんと回る視界に耐え切れず目を閉じると、「おー、軽い軽い」と楽しそうな要の声が聞こえてきた。

「カナちゃ……目、回る〜……」
「あはは、ごめんごめん。大丈夫かー、

 ふらつく体を、要は楽しそうに笑いながら抱き寄せた。ぽすりと腕の中に収まった小さな体は、要の腕が支えてるにも関わらず、ふらふらと頼りない。

「だ……だいじょば、ない」

 情けないの声に、要は声を上げて笑う。彼らの傍を通り抜けたサラリーマン風の二人組みが、小さく咳払いをした。きっとこんな道のど真ん中でイチャついてるんじゃないとでも言いたいのだろう。

「なあ、
「カナちゃん? ど、したの……?」

 抱き締められる腕に力が篭もったのを感じ、は要の胸元に埋めていた顔を上げた。要の淡いブラウンの瞳が、じっとを見下ろしている。その真剣な色に、は息を飲んだ。

「やっぱダメだね、俺。過保護だって自分でもわかってるんだけど……それでも、やっぱりお前のことが心配でね。ふーちゃんにまで呆れられちゃった。十三も歳の離れた弟に溜息吐かれちゃったよ」
「……そう言えば、フート。電話……」
「うん、そう。撮影終わったから迎えにくるならくれば? って、相変わらずの無愛想っぷり。ああ、そう言えば、珍しく意味わかんないこと言ってたっけ」
「??」

 電話口での風斗の言葉を、要は宙を見つめながら呟いた。

「『百年後に出会う王子が、生臭坊主なんてかわいそう』」
「ぁ……」
「ん? 、ふーちゃんの言葉の意味わかるの?」

 こくりと頷いたの頭に、ふたたび風斗のあの言葉が響く。

 ――ねえ、誰が浮かんだ?

 ふわりと微笑むに、要がきょとりと目を瞬かせた。

「あのね……」

 の両手が要の頬を包み込む。ひんやりとした感触に、要が一瞬目を閉じた。

「カナちゃんが、浮かんだ」
「……え?」  
「フートは……なんでもお見通し、だね?」
「は? なになに、俺全然話し見えないんだけど」

 要の腕からするりとすり抜けたが、声を零しながら笑う。この場に風斗がいれば「お見通しって、バレバレだよ。バカじゃないの」と悪態のひとつやふたつ吐き出されてしまいそうだ。
 ふふっと笑うが、要の手を取る。くいっと引っ張ると、そんなに力を入れていないと言うのに、要は「おっと」などと言いながらの方へとよろけた。

「お迎え、ありがと。カナちゃん……大好き」
「あ、ああ……」

 まだ納得がいかない様子の要の前を、鼻歌でも歌わんばかりのが歩く。
 要がすっかり暗くなった空を仰いだ。今日は生憎の曇り空。星どころか月すらも見えない空を見上げながら、要は「まあ、お前が楽しいのならいいけどね」と顔を綻ばせるのだった。 







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