なんでこんなことになっているんだろう……
ぼんやりとした瞳で、自分の両手を見つめる。
「この生地……やっぱり正解」
パタンと閉じた扉の音で掻き消されるくらいの小さな呟きは、の耳にのみ届いたのだった。
「あら? あらあら、良いじゃない!」
全く残念そうじゃない……と、その場にいた全員が小さく溜息を吐く。だが、を前にして目をキラキラと輝かせる美和は、全員の呆れた表情に全く気が付いていないようだ。「やっぱりこの色、良いわねぇ」と、両手で頬を押さえながらニコニコと微笑んでいる。
「社長。撮影の準備が整いました」
スタッフの言葉に、美和の表情が引き締まった。「わかったわ、ありがとう」と答える声も、先ほどまでのものとは違って、まさしく大企業の社長のそれとなっている。
「それじゃ、ちゃん。よろしくね」
乗り気でないも、社長としての美和を目の前にしてしまえば「嫌だ」とも言えない。たとえそれが、自分のブランドのモデルの仕事だったとしても、だ。
「なんで、こんな……」
準備が整ったセットの中へ入ったがぽつりと呟くと、すでにスタンバイが完了していた相手モデルが溜息混じりにそう答えた。
「モデルの仕事だって言うから詳しく聞いてみれば、アンタのブランドだったなんて。僕、これでも忙しいんだよ? それなのに、よりによって相手のモデルもアンタなんてね」
セットのソファーに脚を組んだ状態で腰を掛け、モデルが悪態を吐く。毒のある言葉と言い方だが、はその耳に慣れた声に無意識に固くなっていた表情を綻ばせた。
「なにバカみたいに笑ってんの」
長い指先でトントンと額を小突かれ、がきゅっと眉根を寄せて目を瞑る。その瞬間、の相手モデル、朝倉風斗……もとい、朝日奈家十二男である風斗が、ふっと口元に笑みを浮かべた。どこか嬉しそうな笑みだったが、目を閉じていたが気付くことはなかった。
「うん、いいよー。そのままそのまま。あ、風斗くん。今度は目線こっちで」
カメラマンの声とカメラのシャッターの音が撮影スタジオ内に響く。カメラマンの指示通りに動く風斗は、さすがは大人気アイドルと言ったところか。
「さすが、フート。慣れてる」
それは撮影前にカメラマンから言われていたことだ。撮影に慣れないのために、ポーズは座っているか寝そべっているかのどちらかで、あとは目を閉じてじっとしていれば良いと指示されている。それに、今日のコンセプトはのブランド『Sleeping Beauty』に倣って『眠れる森の美女』なのだ。カメラマンの指示もあながち間違いではない。
「ナメてんの? 素人なのはわかってるけど、いくらなんでもヒドイんじゃない?」
さっきの――とは、城の最奥で永い眠りに就く姫を、王子がキスで目覚めさせるシーンのイメージ撮影。どんな風だったかと思い起こすを前にして、風斗がさらに言葉を続ける。
「それも超マヌケ面。あ、それはいつものことか」
ぷっと吹き出す風斗に、さすがのも不機嫌そうにむっと眉根を寄せた。
「そんな顔するくらいなら撮り直す?」
満面に笑みを浮かべてカメラマンのもとへと駆け寄っていく風斗と、呆気に取られてその背中をぼーっと眺めることしかできない。了承されたのか、笑みを浮かべながら戻ってきた風斗に「バカ面してんなよ」と怒られてようやく、は目を瞬かせたのだった。
「それじゃ、さっきのイメージもう一回撮るね。はい、さん。ベッドに横たわってー」
カメラマンの声に、がおろおろと周囲を見回していると、「ほら、早くしなよ」と風斗の手がの腕を掴んだ。ぐいっと腕を引かれるままにベッドに腰掛ける。
「……? わっ……」
の口から小さな悲鳴が上がった。体が倒れる感覚と、背中に受けた小さな衝撃。かさりと耳元で鳴る音は、敷き詰められたバラの花弁だということはわかった。反射的に閉じていた瞼を持ち上げる。
「ねえ」
風斗の真面目な声がの耳を撫でた。あれだけ悪態を吐いていたというのに、本番となれば途端に真剣になる。そんな風斗に感化を受けたのか、の表情がきゅっと引き締まった。
「そうそう。ほら……目、閉じて。百年後に現れる王子の顔、想像してみなよ」
心なしか優しい風斗の声が耳元で静かに響く。目を閉じていても感じるライトの眩しさが、不意に和らいだ。
「ねえ、誰が浮かんだ?」
風斗の囁く声が耳の中へと流れ込んでくる。
Prince of ... ?
――ねえ、誰が浮かんだ?
風斗の声が頭の中で響く。
「百年後の……王子、さま」
撮影スタジオを後にしたは、駅へと続く道を歩きながら小さな呟きを零した。幹線道路沿いの道は人通りも多く、の呟きなど簡単に掻き消されてしまう。
「だから……なんで一人なの、」
とぼりとぼりと歩く道の先、ようやく駅が見えてきたところで、は頭上から降ってくる呆れを含んだ声に足を止めた。くるりと振り返り、街灯に照らされて立つ人物を視界に入れる。
「……カナ、ちゃん?」
どうしてここに? とでも言いたげな声色に、要は盛大に溜息を吐いた。
「一人歩きは感心しないって、前に俺言ったよね?」
風斗は次の現場に、美和もスケジュールが詰まっていて忙しい。他のスタッフも全員会社に戻ると言っていたし、そもそも彼らの主な交通手段は車だ。一緒に、などと口が裂けても言えない。
「だったら、どうして連絡してこないの。ふーちゃんが電話くれたから迎えにこれたけど、このまま一人で帰るつもりだったの?」
こくりと頷くと、要は眉間に深い皺を刻んだ。
「いたい……」
むぅっと膨れながら呟いた不満の言葉に、要は目を細めると、唐突にの頭をがしりと掴んだ。
「わっ……わわわわ……カナちゃっ……か、カナッ……」
掴まれたまま大きく腕を振られてはたまったものじゃない。ぐるんぐるんと回る視界に耐え切れず目を閉じると、「おー、軽い軽い」と楽しそうな要の声が聞こえてきた。
「カナちゃ……目、回る〜……」
ふらつく体を、要は楽しそうに笑いながら抱き寄せた。ぽすりと腕の中に収まった小さな体は、要の腕が支えてるにも関わらず、ふらふらと頼りない。
「だ……だいじょば、ない」
情けないの声に、要は声を上げて笑う。彼らの傍を通り抜けたサラリーマン風の二人組みが、小さく咳払いをした。きっとこんな道のど真ん中でイチャついてるんじゃないとでも言いたいのだろう。
「なあ、」
抱き締められる腕に力が篭もったのを感じ、は要の胸元に埋めていた顔を上げた。要の淡いブラウンの瞳が、じっとを見下ろしている。その真剣な色に、は息を飲んだ。
「やっぱダメだね、俺。過保護だって自分でもわかってるんだけど……それでも、やっぱりお前のことが心配でね。ふーちゃんにまで呆れられちゃった。十三も歳の離れた弟に溜息吐かれちゃったよ」
電話口での風斗の言葉を、要は宙を見つめながら呟いた。
「『百年後に出会う王子が、生臭坊主なんてかわいそう』」
こくりと頷いたの頭に、ふたたび風斗のあの言葉が響く。
――ねえ、誰が浮かんだ?
ふわりと微笑むに、要がきょとりと目を瞬かせた。
「あのね……」
の両手が要の頬を包み込む。ひんやりとした感触に、要が一瞬目を閉じた。
「カナちゃんが、浮かんだ」
要の腕からするりとすり抜けたが、声を零しながら笑う。この場に風斗がいれば「お見通しって、バレバレだよ。バカじゃないの」と悪態のひとつやふたつ吐き出されてしまいそうだ。
「お迎え、ありがと。カナちゃん……大好き」
まだ納得がいかない様子の要の前を、鼻歌でも歌わんばかりのが歩く。
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