スリッパを引きずるようにして歩く足音が聞こえ、琉生は読んでいた雑誌から顔を上げて振り返った。目にも鮮やかなロイヤルパープルのカーディガンと、ハニーブラウンの長い髪が視界の端に映る。

「あれ? ちゃん」

 こてんと首を傾げながら「どうしたの?」と聞く琉生に、はゆるりと首を横に振って彼の隣に腰を掛けた。ブランケットを片手に持っていることから、今日は外には行かず室内で過ごすと決めていることがわかる。
 風斗は撮影があるからと早朝に別荘を後にし、祈織は珍しいことに散歩に行くと行って外に出ている。他の兄弟たちも、今日も元気に海水浴を楽しんでいるようで、リビングには琉生と今しがた入ってきたの二人きり。テレビも点けず、窓も締め切られた部屋はしんっと静まり返っていて、シーリングファンが回る音と琉生が雑誌を捲る音しか聞こえない。

「外、行かないの?」
「……行かない」
「そういえば、さっき、要兄さんが探してた」

 ぴくりとの肩が揺れる。そのまま膝に掛けたブランケットに顔を埋めるようにして膝を抱えるに、琉生は「何か、あった?」と声をかけた。ふるりともう一度が首を横に振る。閉じた雑誌をテーブルに置く音が静かな部屋にやけに大きく響いた。ギッとソファーが軋み、は膝に乗せていた頭を持ち上げようとする。だが、それは優しく乗せられた温かい手のひらに阻まれて、膝の上に逆戻りしてしまった。どうしたのか、という気持ちをこめて「ルイ?」と声を出すが、琉生は二度三度との頭を撫でるだけで返事をしようとしない。
 されるがままに頭を撫でられながら、は自分の目尻に涙が浮かんでいることに気づいた。気づいてすぐ、涙は目尻から溢れ出し、ぽたりぽたりと落ちてブランケットに染み込む。撫でる手は優しく、それが更に涙腺を刺激するようだ。

「ねえ、ちゃん」
「…………っ……」

 声にならない声で返事を返すに、琉生はふっと眉を下げて微笑んだ。

「言いたくないのなら、無理に聞かない。でも、ちゃんがそんな顔してるのは見たくない、かな」

 撫でていた頭を抱き寄せるようにして、琉生はの頭に自分の額を引っ付けた。こつんと軽い衝撃に、がもぞりと身じろぐ。「よしよし」と言いながら頭を撫でるそれは、おおよそ同い年の、それも成人した女性にするものではないように思える。だが、が抵抗もせずにされるがままなのは、琉生の纏う雰囲気のせいなのだろうか。話を聞いて欲しい。不思議とそんな気分にさせれる。
 すんっと鼻を鳴らして、はゆっくりと顔を上げた。「あのね……」と小さな声が彼女の小さな唇から零れる。

「うん」

 静かに頷き、琉生は彼女が続きの言葉を紡ぐのをじっと待った。たっぷり三十秒。へたりと眉を下げたが琉生の肩に額を乗せるのと、「恐かったの……」と呟いたのは同時だった。「恐かった?」と聞き返す琉生にこくりとが頷く。

「カナちゃん……いつもと、ちがった。別の人、みたいで……恐かった……」

 とても小さなの声に、琉生は眠たげだった目を僅かに見開いた。あんなにも要を慕っていた彼女がこんなにも怯えるなんて、一体何をしたのだろうか。まさかと思うが、要に限ってそれはないと即座に首を横に振る。何があったのかは知らないが、要がを傷つけようとするなんて考えられなかった。

「要兄さんのこと、嫌いになった?」

 肩に触れる小さな頭が揺れた。ふるふると左右に振れた頭に、琉生は安心したように笑みを零すと、「要兄さんはきっと」と言って言葉を切った。肩にかかる重みがわずかに増えたからだ。それと同じタイミングで、扉が開く音が聞こえた。ギッとフローリングが軋む。

「部屋にもいないし、どこ行ったんだ? あ、るーちゃん」
「要兄さん、シー」

 振り返って唇に人差し指を当てる琉生に、要は「シー?」と小声で言いながら琉生の座るソファーを覗き込んだ。ああ、なるほどと納得する。

「寝てるの?」
「うん、本当についさっき」
「そっか。隣座っていい?」
「うん」

 を挟むようにして座った要が、琉生の肩に額を乗せるようにして眠る小さな姿にふっと困ったような笑みを零した。

「重いでしょ、るーちゃん。こっちに、」
「ううん。ちゃん、軽い」

 の肩に手を伸ばした要の手を、琉生がやんわりと遮った。言いかけた言葉まで遮られ、要は目をぱちくりと瞬かせると、「何? どうしたの?」と声のトーンをわずかに落として目を細める。

「ねえ、要兄さん。ちゃん、泣いてた。何したの?」
「え?」

 普段の穏やかな口調とは違う、わずかだが非難するような声色の琉生に、要は再び目を丸めた。何をしたと問われれば、心当たりは一つしかない。間違いなく昨夜のことが原因だろう。昨夜部屋に戻ってからというもの、どう考えてもに避けられていることも自覚していた。いくらなんでも無防備なに、自分は男なのだということを自覚してもらおうと、さらに言えば少しでも意識されればと思っての行動だったのだが、要は失敗したかなと反省をする。

「……恐がらせちゃったかな」

 独り言のように呟いて、髪で隠れたの頬に手を伸ばした。今度は琉生も遮ったりはしなかった。

ちゃん、恐かったって。要兄さんが別の人みたいだったって。それだけ、言ってた。でも、嫌いにはなってないって」
「そっか。……ごめんね、るーちゃん」
「ううん。謝る相手、僕じゃない」
「あはは、そうだね」

 力なく笑い、指先での頬を撫でる。そんな要の表情に、琉生は安心したように息を吐いた。そしての体をそっと押し要の腕の中へと移動させると、未だすやすやと寝息をたてる横顔とそれを見守る優しい瞳を交互に見やり微笑んだ。きっともう大丈夫だろう。

「要兄さん。ちゃんのこと、好き?」
「ああ、好きだよ」

 琉生の問いかけに、要は即答する。そこには迷いも躊躇いもなかった。

「それじゃ、ちゃんと話、して? 安心させてあげて」

 要の目をじっと覗き込み、目を逸らすことなく琉生がそう言う。

「ああ、そうするよ。ありがと、るーちゃん」

 軽々とを抱き上げた要が、琉生の瞳を見つめ返しはっきりとした口調で答えた。こくりと頷き再び雑誌を手に取った琉生を横目に、要はリビングを後にする。
 パタンとドアの閉まる音を最後に、リビングはまた静寂に包まれた。














 自室に戻ってすぐ、は目を覚ました。「ああ、また」と思うと同時に感じた浮遊感に、きょろきょろと辺りを見回す。

「目、覚めた?」
「……っ……カナ、ちゃん……」
「っと、そんなに怯えないでよ、

 ビクリと肩を震わせたに、要は傷ついたように眉を下げて笑う。「……ごめん」と囁くような謝罪の言葉が要の耳を撫でた。後ろ手でドアを閉め部屋の中央に置かれたベッドに移動すると、要はを抱き上げたままベッドの上に腰掛けた。膝の上のは項垂れたままだ。少し汗を掻いているのか、首に張り付いた数本の髪の毛を指で払いながら、要はゆるりと首を横に振る。

「謝るのは俺の方。……恐がらせちゃったね。本当にごめん」

 髪を梳き、頭を撫でながらの要の言葉に、は反射的に首を振った。要の長い指にハニーブラウンの髪が絡みつくが、は構うことなく首を横に振り続ける。「そんなにしたら目が回っちゃうよ」と冗談交じりで要が言うと、ぴたりと動きを止めたが今度は細い腕を伸ばして要の首に抱きついた。

「カナちゃん……あの、ね。恐かったのは……本当」
?」
「でも……でもね、嫌いになんてならない……、カナちゃんのこと……嫌ったりなんて、絶対にしない」

 途切れ途切れに紡がれるの言葉。要はゆっくりと瞼を下ろすと、ぴたりと身を寄せるの体をしっかりと抱き締め返した。クーラーも付けずにいた部屋は、眩しいくらいの陽射しが降り注ぎ暑い。それでも二人の体が離れることはなかった。

「あのさ、

 先に静寂を破ったのは要の方だった。顔を上げたの瞳に、優しく細められた要の淡いブラウンの瞳が映りこむ。「ちょっと話したいことがあるんだけど」と言ったまま続きを口にしない要に、は「なに?」と首を傾げた。ふいっと要が目を逸らす。「あー」だの「その」だの、普段の要からは想像もできないような態度に、は首を傾げたまま「カナちゃん?」と問いかけた。

、俺……」
「かなにー! きょーにーが呼んでるぜー! かなにー? 聞こえてるー?」
「ちょっと、椿。声大きいよ」
「えー、なんでー? これくらい大きくないと聞こえないってー」

 言いかけた言葉を遮って、階下から椿の大きな声が聞こえた。続いて響く梓とのやりとりの声。梓の言うとおり大きな声を出さなくても十分に聞こえるのだが。
 まったくこのタイミングで、とガクリと肩を落とす要に「カナちゃん。つっくん、呼んでる」とがトドメを刺した。

「……つばちゃん……」

 はぁっと大きな溜息が零れる。もそりと膝の上から降りるを引きとめることなく、彼女の続いて要も立ち上がった。頭いくつ分も下から見上げてくるの頭をぽんぽんと撫でもう一度溜息を吐いた要が、「聞こえてるよ」と大きな声で階下の椿に返事を返す。

「邪魔が入っちゃったね。続きは後でもいい?」
「うん」

 素直に頷くに微笑みかけて、要がドアを開いた。「あ」と声を漏らして振り返る。

「夕飯のあと俺の部屋に来て。ゆっくり話そう」

 パチンとウインクをひとつ贈り、が返事をするよりも早く要は部屋を後にした。階段を降りる足音を耳に、はホッと安心したように息を吐き出した。
 ライトブラウンの瞳が寂しそうに揺らいでいたことは、彼女自身も気づいていない。







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