まったく……なんでこんなバグを見つけてしまったんだ、と二つあるモニターの片方を半眼で睨むように見つめながら私は嘆息した。別にデバッグをしていた訳ではない。ただ開発に関わった者として発売前のゲームを少しだけプレイしていただけなのに。ほんの息抜きのつもりだったのに。

「……なんでこんな致命的なバグを見逃してんのよ……つーか、なんで見つけちゃったのよ、私……」

 溜息交じりに呟き、デスクの上に力なく突っ伏す。これでも怒っているのだが、叫ぶ気力が出ない。それもそのはず。突っ伏したまま視線をデスクの上のデジタル時計に向けた私は、あと二十分足らずで日付が変わってしまうという事実に、またもや重い溜息を吐いた。今から会社を出たとしても終電には間に合わない。ああ今日も朝帰りかと、本日何度目かもわからない溜息に顔も知らないデバッガーへの恨みを乗せて、現実逃避をするように宙を仰いだ。視界の端に映った壁掛け時計の長針が9を指している。こんな時でも時間は平等に進むのね……なんて、どこか哲学じみた己の思想に思わずぷっと吹き出してしまった。

「……何ひとりで笑ってんだ。怖いぞ、オマエ」
「んあ? なんだ、朝日奈君か。急に声かけないでよびっくりするじゃない」
「そう言うなら少しは驚いた風にしろ。棒読みじゃねーか」

 くるりと椅子を回転させて「ばれてた?」とへらりとした笑みを浮かべて答えた私は、呆れたように見下ろしてくる朝日奈君を見る。「ばれてたも何も……」と言って溜息を吐いた朝日奈君が、「それより。オマエ、まだ残ってたのか」と急に話を変えた。どうやら私の冗談に付き合ってられないとでも言いたいらしい。

「残ってたの知ってたから来たんじゃないの? 開発課ここって、営業課とはフロアも違うのに」
「オマエのとこの主任に、コレを渡しに来たんだよ」

 コレと言って差し出してきた封筒を受け取り、遠慮もなく中身を取り出す。どうやら先日発売したばかりのソフトの売れ行きを示した報告書らしいが、数字やらにさっぱりな私は何をどう見ていいかわからず、「ふーん」と生返事をしながら資料をそっと封筒へ戻し、自分のデスクの上に放り投げた。朝日奈君が「置くなら主任のデスクに置いてくれ」と言うが「後でね」と軽く返す。

「主任ならとっくに帰ったよ。青山のイタリアンレストランでデートだなんだって朝から大はしゃぎ。定時になるなり速攻で出てったから、今度はマジも大マジなんじゃないかな?」
「マジって何がだ?」

 言葉の意味が理解できないのか首を傾げる朝日奈君を見て、彼と同じ課の風祭君が「あいつってホント鈍いよなあ」と言っていたことを思い出す。素直に教えてあげても良いのだが、なんだかんだで朝日奈君をからかうと楽しい。「んー」なんて言いながらちらりと覗き見た朝日奈君は、軽く眉を顰めてまだ首を傾げていた。

「ねえねえ、朝日奈君。ウチの定時って何時?」
「はあ? 十八時だろ。そんな時間に帰ったことねえけど」
「あはは……私も。ちなみに主任の今日の服装はスーツです」
「? そりゃレストランでデートなんだったらスーツくらい着るだろ」
「もー……、朝日奈君はほんとににぶちんですなあ〜」
「なんでそうなるんだよ……ったく、オマエも風祭と同じこと言いやがって」

 風祭君ってば、朝日奈君本人にも言っちゃってたんだ、なんて言葉は飲み込んで、小さく息を吐きながら綺麗に寄った眉間の皺を見つめた。

「新調したばかりのダークグレーのスーツに、アイロンがぴっしりとかかったシャツ。上品な光沢のシルクのネクタイ」
「は?」
「足元はブラウンの本革の靴。もちろんぴっかぴかに磨き上げられたね」

 「オマエは何が言いたいんだ?」って顔に書いてある朝日奈君を見上げたまま、私はああ忘れたとばかりに「今日の主任の格好だよ」と付け足した。そこでようやく気づいたらしい。「は? 開発二課オマエのとこの主任がか?!」と驚きに声を上げた。思わず大きな声で笑ってしまう。

「そうだよ。あの、上層部との会議であろうが、新作のお披露目パーティーだろうが、ヨレヨレの『いつ買ったんですか?』って聞きたくなるようなスーツで登場するウチの主任が、だよ」
「あー……なるほどな」
「ねー。あ、ちなみに昨日の主任の格好は……」
「言わなくていい。昨日は会議で一緒だったから知ってる」

 あははを超えてぎゃははと笑うと、「もっと女らしい笑い方はできんのか」と朝日奈君が溜息を吐いた。夜中のテンションなのだから許して欲しいし、それより以前に、今さらのことなのでさらりと流す。

「それにしても、主任もついにプロポーズかあ。長かったねえ〜」
「付き合ってそんなに長いのか?」
「たしかこの間の飲み会の時に五年って言ってたような。誰かが『キリいいっスね!』なんて言ってたから、煽られたのかも」

 単純な主任のことだ。きっとあの言葉で心を決めたのだろうと勝手に解釈して、私はくるりと椅子を回転させた。朝日奈君から視線が外れ、バグのせいで主人公がおかしな動きをしている場面を表示したモニターが私の目に映る。ついでに時計を見ると、日付はとっくの昔に変わっていた。

「朝日奈君、帰んなくていいの? もう日付変わっちゃったよ?」

 システム画面を呼び出しキーボードを叩きながら、背後にいるであろう朝日奈君にそう声をかける。返事が返ってくるよりも先に、ふっと空気が動いた。キィっと椅子が軋む音が聞こえ、自分の左側から微かなタバコの匂いがして、朝日奈君が隣に座ったのだと気づく。

「なんだ? バグか?」

 モニターを覗き込む朝日奈君の横顔が視界の端に映り、そうかと思えば左腕に何が触れる感触がした。温もりと適度な弾力があるので朝日奈君の体だというのは理解できたが、何せ顔が近い今、首を捻って確認することは憚られた。振り向けば、私の唇が朝日奈君の頬に触れてしまう可能性があるほどに顔が近いからだ。そのことに、どうやらにぶちんな朝日奈君は気づいていないらしい。座り直すフリをして、少しだけ距離を取る。「んん」とわざとらしい咳払いをすると、不意打ちのせいで高鳴っていた鼓動が少しだけ落ち着きを取り戻した気がした。
 朝日奈君は社内で一、二を争うほどのイケメンだ。ただの同僚とは言え、そんな彼がこんなに近くにいるのは少し心臓に悪い。誤魔化すようにコントローラーを手に取った私は、左スティックを適当な方向に倒した。

「あのねー、さっきからずーっと剣振り続けてんの。ほら、見て。普通だったら移動を始めたら鞘に収める動作が入るのに」
「ぶっ! なんだよコレ!」
「ちょっと、笑わないでよ! 笑い事じゃないんだって! 確かにこの動き笑えるけどさ!」

 至近距離で吹き出した朝日奈君の肩を押しながら「汚いなー、もう」なんて文句を言うが、彼はやめるどころか声を殺してくつくつと笑い続けた。一回吹き出したくせに何をクールぶってるんだとばかりに、私はコントローラーを掴んでアクションコマンドを入れてやった。ぐっと朝日奈君が笑いを堪えるように息を詰める。

「そんなこと言って、オマエだってニヤついてるじゃねーか。って、おいこら! その動きやめろ!」
「見て見て、朝日奈君! しゃがんでもジャンプしても振ってるよ!」
「おまっ、ぶはっ! くくっ」
「あははははははは!! なにコレヤバイ!! ちょっ、朝日奈君、見て見て!」




 主人公に変な動きをさせてひとしきり笑った後、私と朝日奈君は同時に深い溜息を吐いた。きっと朝日奈君は笑い疲れたせいだろうが、私の方はまた別の要因があっての溜息だ。そう。今からこのバグを直さなくてはいけない。バグが発生する原因を突き止めるためシステム画面をスクロールし出したところで、「オマエ、今からこれ直すのか?」と朝日奈君が驚きの声を上げた。

「うん。バグの発生はこのフィールド内だけっぽいし、そんなに時間かかんないと思う。それに今やっとかないと、明日は明日で別の仕事あるし」
「そうは言っても、一時間二時間の話じゃないんだろ?」
「あはは。だいじょーぶだいじょーぶ。朝陽が昇るまでには終わるって」
「朝陽って……オマエなあ」

 呆れたように立ち上がった朝日奈君を見上げて、「朝日奈君って車だっけ?」となんとなく声をかけた。

「そうだけど。乗って、」
「そっか。気を付けて帰るんだよ〜。お疲れさま!」

 何か言いかけたように聞こえたけれど、それよりも早く発した自分の言葉で掻き消してしまい、結局彼が何て言ったかを聞き取ることはできなかった。ガタンと椅子が倒れかける音がしたが、今画面から目を離すと修正箇所を間違えてしまいそうなので、「大丈夫?」とだけ声をかける。

「あのなあ……」
「ん?」

 一箇所修正を終えたと同時に、視界の左端に朝日奈君の筋張った大きな手が映った。腕まくりしているせいで、綺麗に筋肉がついた腕も見える。それを辿って顔を上げると、声色に見合った疲れた表情を浮かべた朝日奈君の顔があった。

「どしたの?」
「いや、いい。ちょっとコンビニ行ってくる」

 そう言うなり背を向けて部屋の出入り口に向かう朝日奈君に「え? 帰んないの!?」と言うと、彼はドアノブに手をかけたまま首だけ振り返った。眉間にはこれでもかと深い皺が刻まれている。

「腹減ったんだよ」
「ああ、なるほど。ってお腹空いたのなら早く帰りなよ」
「オマエ……。ったく……付き合ってやるって言ってんだ。大体、その様子じゃ晩飯も食ってないんだろ」
「へ?」

 思わぬ言葉にぽかんとバカみたいに口を開いてしまった。がちゃりとドアが開く音に、はっと我に返り「朝日奈君?!」と叫ぶようにして彼を呼んだ。

「今度はなんだ」

 ぶっきらぼうな返事とは裏腹に、朝日奈君の口元には呆れを含んだ笑みが浮かんでいて、私は思わずごくりと喉を鳴らした。忘れたように治まっていた胸の鼓動が再び高鳴り出す。今度は不意打ちのせいなんかじゃない。

「わ……私、私も行く!」
「は? オマエは一刻も早くバグを直せ」
「だ、だって、朝日奈君に夜食任せたら、乙女の敵みたいなカロリーの高いお弁当買ってきそうなんだもん!」

 ガタンと勢いよく立ち上がり鞄の中から財布と携帯を取り出すと、朝日奈君は逃げるように部屋を出てドアを閉めてしまった。慌てて追いかけ廊下に出ると、突き当たりにあるエレベーターの前で朝日奈君がこちらを向いて立っていた。彼の口元がニヤリと意地悪そうに上がる。

「たしか一階のコンビニの新作弁当はトルコライス弁当だったな」
「ちょっと! それ軽く千キロカロリーいってるやつ! 絶対ダメ!」

 ダッと駆け出すが時すでに遅し。朝日奈君の姿はエレベーターの扉の向こうに消えてしまった。













 3・2・1と小さくなっていくエレベーターの表示を半眼で見つめていた私の耳に、ピリリと無機質な携帯の着信音が届いた。画面を見ると「着信:朝日奈君」の文字。慌てて通話ボタンを押すと、くつくつと必死で堪えようとする笑い声が聞こえた。

「ちょっと! あさひ、」
『心配すんな。トルコライスは買わねーよ。で、何が良いんだ?』
「人の話をき、」
『お、この暑い中おでん売ってるぜ?』
「いや、だから」
『まあ適当に買っていくから待ってろ。それ食ってさっさと終わらせて帰ろうぜ。送ってってやるから』
「え?」
『それじゃあな』

 私が何か言うよりも早く、ぷつっと通話が切れてしまう。携帯を耳から離し、今の会話がたった三十秒足らずで終了したことに少しだけ驚き、そして朝日奈君が言った言葉にさらに驚いた。
 ふらりとした足取りで開発二課のドアを開けて中に入る。薄暗い室内の端っこで光るモニターの画面に目をやると、ゲームの主人公が相変わらず剣を振り続けていた。








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