「あかんよ、。もうそんくらいにしとき」

 ローズウッドのバーカウンターを見つめながら琥珀色の液体が注がれたグラスを傾ける女を、Bar HOMRAのマスターである草薙出雲は静かに窘めた。口を噤んだまま答えないと呼ばれた女の代わりに、溶けた氷が崩れてカランと小さく音をたてる。綺麗に噛みあわない氷とグラスが、の震える手に揺らされ音を響かせ続けた。
 「泣いてもええんよ」と言う草薙に、は零しそうになる涙を飲み込むようにグラスを傾ける。そしてその中身がなくなると、湛える色を失くした無色のグラスを差し出す。その度に草薙の窘める声ばかりが響くのだ。
 店の外には“Closed”のサインプレートがかかっている。看板や外壁を照らし出すスポットライトも今は落とされ、臨時休業となった店内は普段の喧騒が嘘のように静まり返っていた。今日ばかりは二階部分も空っぽで、この建物の中は正真正銘、草薙との二人きりだ。

「……草薙さん……」
「ん」

 ようやく口を開いたかと思えば、喉の奥が焼きついてしまったかのような擦れた声に、草薙は憂いの色を帯びた目を伏せる。こんなになるまでどうして我慢するのかと。
 差し出されたグラスを下げ、代わりにゴブレットに水を注いでの前に置く。両手で包み込むようにしては、その液体に色がないことに眉根を寄せた。

「……何も……私は何も……ただうずくまって……何も出来なかった……」
……」

 “第七王権者 無色の王”
 そう名乗った白髪の少年を目の前に、倒れた十束の体からじわりと滲み出て流れる赤色を隣にしながら、は声を上げることも抵抗することもなくただ呆然と起こった光景を見つめることしかできなかった。
 去って行く少年を捕まえることも、その背中を睨みつけることすらもできず、じわりじわりと布越しに伝わる十束の血の熱さを感じながら、ただ呆然と――。

「夜景なんて明日でいいじゃないって……今日は店にいようよって言ってれば……」
「そないなこと、今更言うてもしゃーないやろ」
「ッ……」

 奥歯を噛み締める微かな音が草薙の耳に届く。

「多々良くんの体から力が抜けて……それでも血が止まらなくて。あの綺麗な眼が曇って、私ッ……」
「もうええ……ええから」
「まだ……まだ体温かくて……なのにッ、なのに……」

 駆けつけた草薙と八田がぐったりと横たわる十束の名を呼び続ける声も、あの耳に慣れた「へーきへーき、なんとかなるって」の言葉も、どこか遠い場所で鳴っている現実味のないサイレンの音のようで。

 ――やめて! 多々良くんを連れてかないで!! やめてッ! やめてよ!!

 ようやく到着した救急隊員の腕によって十束の体が引き剥がされてようやく、は声を荒げただ狂ったように魂の抜けた体に縋りついたのだった。草薙と八田が止めなければ、もしかすれば最悪の状況になっていたかもしれない。救急隊員たちはこの場所にこなかった……といった形で。

「……まだ温かかったの……多々良くんの体。しんッ……しんじゃったなんて……信じられなくてッ」

 湯気の立ち昇るカップがの前に置かれる。
 甘く優しい香りは蕩けるようなミルクティーのそれで、湯気が顔に当たるのも構わずにその水面を覗き込んだの目がゆらりと揺れた。
 ポチャンと小さな水音が聞こえる。

 ひとつ……ふたつ……みっつ……

「せっかく淹れたミルクティーがしょっぱぁなってまうよ」

 草薙が守ったのは、涙が注がれ続けるミルクティーだろうか。煙草の匂いが染みついた指先が、の目尻をそっと撫でる。

「みんなは……草薙さんはッ……いなくならないで…………ひとりにしないでッ……」

 嗚咽に混じって言葉になりきらないの声が響く。
 頬を伝い落ちる涙を拭い続けていた草薙の手が、ゆったりとした動きでの頭に乗った。

「ひとりになんてしたりせーへん。大丈夫や、。お前がひとりになりたい言うたかて、そんなこと俺が許さへんよ」
「…………ほんとに?」

 上を向いたの顔は酷いものだった。生気のない眼から、そこだけが生きているかのように涙が流れ続け、撫で続けた瞼が赤く腫れている。
 憔悴しきったその表情に草薙は眉を顰めるがそれも一瞬のこと。気づかれないように深呼吸をし、口元に笑みを貼り付ける。

「あぁ、ほんまや。……ほな、こうしよか。約束破ったら――」

 こくりとが頷く。
 パーカーの袖で乱暴に涙を拭い、たっぷりの砂糖と少量の涙が入ったミルクティーを一気に飲み干した。

「……絶対に離さないよ。成仏したくたって、その魂も離してなんてやらない。冷たくなって……腐って干からびて骨になって……そこでようやくその骨を、」


















「あーあ、うちの姫さんは怖いお人やわ」

 冗談交じりに言う草薙に、はようやくその口元に笑みを浮かべた。

「当たり前でしょ? 約束を破った代価なんて、釣り合わないくらいがちょうどいいんだから」

 その奇妙なほどに綺麗な笑みに、草薙の背筋がぞくりと粟立つ。
 気づかれてしまってはいないだろうか。
 手元にあったグラスを持ち上げクロスで磨いた草薙は、ともすれば引き攣ってしまいそうな口元を隠すように振り返り、静かに棚へと手を伸ばす。
 キィンと甲高い音がまるで悲鳴のように耳に反響して消えた。







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