こんなにも恐怖を感じたのは初めてだ・・・


一面には純白の花

広い湖は透き通ったオリエンタルブルー

どこから舞い降りてきたのか、ひとひらの花弁が湖面を揺蕩っている

雲ひとつない青空

あおとしろで織り上げられたこの世界に

紛れ込んだ異質な色






浄い世界に似合わぬこの色はなんといっただろうか






指を差し込めばさらりと零れるこれは"漆黒"

手のひらに馴染むように吸い付くこれは誰かが"象牙"のようだと言っていた

今は薄い瞼で隠された先にあるのは"黒曜石"か

だが

彼女を今染め上げている色は・・・


















冷たい汗が頬を伝ってシーツを濡らした。
肌に絡みつくように張り付く髪の毛が気持ち悪い。
手のひらで顔を覆い、額に浮かび上がる汗を拭うと、指の隙間からぽかりと浮かぶ大きな月が見えた。
ぼんやりとしたまるいまるい・・・

あかい月

指の隙間から見えるブルーの瞳が大きく見開かれる。
どくんと胸の中心が大きな音をたてた。
まるで全身が心臓になってしまったようにうるさい。

ドクン

ドクン

しんっと静まり返った室内で、聞こえるのは自身の心臓の音のみ。
音が大きくなるにつれ、沸騰してしまったかのように血が沸き立つ。
どくんと鳴るたびに、自分の中の悪魔の血が鎌首を擡げるのをダンテは感じた。

ドクン
(力を・・・)

ドクン
(血を・・・)

ドクン
(もっと・・・)

ドクン
(もっと・・・)


「ぅん・・・」

衣擦れの音と共に小さな溜息にも似た声がダンテの耳に飛び込んできた。
ぎぎっとぎこちない動作で声のした方へ視線を向ける。
横たわる彼女は夢の中と寸分違わぬ姿をしていた。

「・・・

心の底から愛しくて止まないその人の名を呟く。

漆黒の髪に象牙の肌。
閉じられた瞼を縁取る濡れたような長い睫毛。
その奥には黒曜石のように輝く両の眼。

相変わらず美しくて愛しい、が・・・

―――足りない

どくんとまた大きく心臓が跳ねる。
顔を覆う両の手をゆっくりと引き剥がすと、よりはっきりと彼女の姿が目に映った。
守るべきは己の信念のみだったダンテに、愛しいという感情を教えてくれた人。
愛しい人。
心から守ってやりたいと思う人。
こんな薄汚れたスラムのど真ん中でも、凛とした輝きを失わない人。

だからこそ・・・

引き剥がした両腕をそっと白く細い首筋に這わす。
優しく撫でるように、手のひらに吸い付くようなその感触を味わう。
唇を寄せ、舌を這わせ、きつく吸い上げると足りなかった色が小さく咲いた。
とくりとくりと脈打つ首筋。
両手で包み込むとその細さに恐怖を感じる。
少し、ほんの少し力を入れただけで縊り殺せてしまう小さな命。

どくん・・・どくん・・・

じわりじわりと力を籠めてゆく。
息苦しさを感じたのか、穏やかな寝顔だったの眉間に小さく皺が寄った。
酸素を求めるように薄く唇が開く。

「っ・・・だん、て・・・?」

薄っすらと開かれた瞼の奥から、光を反射して輝く瞳が顔を覗かせた。
名を呼ばれ、弾かれるように両手を離す。

「どうしたの・・・?何か、あった?」

寝起きの少し舌足らずな喋り方でそう尋ねるに、ただ一言"悪い"と答える。
むぅっと眉間に皺を寄せ、納得がいかないと言った表情をするですら可愛くて、愛しくて仕方が無い。

「悪い・・・本当になんでもないんだ、。」

「嘘」

はっきりとした声が耳に届き、ダンテは目を見開いた。
小さな手のひらが頬を包み込む。
柔らかく温かいそれに、心の奥に巣食う濁った感情がすぅっと音をたてて溶かされていくのを感じる。

「なんでもない・・・ただ少し・・・」

熱をもった柔らかな唇に遮られ、その言葉の先を紡ぐ術を失ってしまう。
ただ重ねられただけで離れてゆくその温もりを求めるように、ダンテはの唇に己のそれを押し付けた。
頑なに閉じた唇を抉じ開けるように舌を這わせる。
酸素を求め薄く開かれたそこに捩じ込むと、の喉からくぐもった声が漏れた。
何度も角度を変え、歯列をなぞり逃げる舌を吸い上げる。

「んぅっ・・・っはぁ・・・」

ようやく解放され、は荒い息を整えるように浅い呼吸を繰り返す。
そっと腕に抱き寄せ背中を撫でてやると、落ち着いたのかの腕がダンテの背中に回され、きつく抱きついてきた。
ふっと頬が緩む。

・・・お前を殺す夢を見た。」

唐突に吐き出したダンテの言葉に、が小さく息を飲んだのがわかった。
僅かに身を固くしたの耳にダンテは唇を寄せた。

「白い花の真ん中で、真っ赤に染まったお前が倒れていたんだ。俺の両手も血で汚れて、ただ俺はお前を殺したんだと・・・」

夢の内容を辿るようにそう語るダンテの唇は微かに震えていた。

「ただ恐ろしかった。目が覚めた時、夢で良かったと思った。」

「ダンテ・・・」

ゆっくりと顔を上げたの瞳とダンテの瞳が合わさる。

「俺の血の半分は悪魔だ。この夢がいつ現実となるかもわからねぇ・・・現に今だって・・・」

―――俺はお前を殺そうとしていた

寸でのところで言葉を飲み込む。

「俺が恐いか?。」

「ううん。」

小さいが、きっぱりと意志を持った声が耳を抜けて胸に突き刺さる。
迷いも淀みも無いその声色と、真っ直ぐな瞳にダンテは僅かに目を見開いた。
」・・・そう名を呼ぼうと口を開いたが、それは彼女の静かな声によって遮られる。

「ちょっと吃驚しちゃったけど・・・でも恐くないよ。私はダンテに殺されることなんかよりもね、必要とされなくなることの方が恐い・・・と思う。そっちの方がよっぽど恐ろしいよ・・・」

最後の方は消え入りそうなほど小さく呟かれ、しんっとした室内に溶けてゆくようだった。
自分のことを殺してしまうかもしれない、この半魔に必要とされなくなることの方が恐いと言った
必要としなくなることなんて万に一つも無いのに、それを心配して憂いた瞳を覗かせる彼女に、愛しさで心臓が締めつけられるほど苦しくなる。

「あ、でもやっぱりちょっと嫌かな・・・ダンテと話したりできなくなっちゃうし。」

その言葉にぽかんとしてしまった。
そういう問題じゃないだろう、と思わず呟いてしまう。
その答えが不満なのか、明らかに不機嫌な表情を見せたは、ダンテの両頬を挟み込み思いっきり力を入れた。
ぶっ!っと情けない音が口から漏れる。
よほどおかしかったのかすぐに破顔し、けらけらと腹を抱えんばかりに笑い出した。

・・・お前な・・・」

「だって、そういう問題だよ。」

ダンテの呆れた声を、真剣な声が遮る。

「ダンテと話せなくなっちゃうのは嫌だ。触れれなくなるもの嫌。キスだって出来なくなっちゃうんだよ?私はもっとダンテといろんなことがしたい。いっぱい話したいことだってあるし。それに何より・・・死んじゃおうとなんだろうと、ダンテと一緒に居れないことが私には一番辛い・・・私はずっとダンテの隣で生きてたいっ・・・それだけわ、たしはっ・・・」

ぽろりとひと滴、温かい涙がの頬を滑り落ちる。
ひとつ、ふたつ、みっつ・・・ぽろぽろと零れる涙は止まる術を忘れたかのように零れ続け、の頬を手の甲を濡らした。

「あはは・・・なんでだろ。涙出てきちゃった。」

恥ずかしそうに笑って誤魔化すを無我夢中で抱き寄せた。
驚いてが小さな悲鳴を上げたが、構うことなくきつく抱き締める。

「ダンテ、くるしいよ・・・?」

「悪い」

そう答えるが、ダンテはを抱き締める腕の力を抜こうとはしなかった。
この腕を緩めては、この体を離してはいけない気がする。
もぞもぞと必死に腕の中から顔を上げたが嬉しそうに目を細めた。
どちらからともなく唇が重なり合った瞬間、カーテンの隙間から朝陽が射し込んできた。
それは、腕の中のを真っ赤に染め上げ、そしてダンテを染め上げる。
あの恐ろしい夢で見たのと同じ異質な色は、信じられないほど美しい。
夢の中のは静かに目を閉じて横たわっていた。
だが、今目の前にいるは、嬉しそうに黒曜石の瞳をきらきらと輝かせじっとダンテを見詰めている。
あのような夢が現実になどならないように・・・

「だから、ダンテ。離れ離れにならないようにずっと私を守ってね?」

赤とも朱ともつかぬ色に染め上げられたダンテの銀糸に指を絡ませ、はそう呟いた。

「ああ、勿論だ。」







一緒に笑って生きるために、邪魔するすべてのものから君を守ろう。
たとえそれが己自身であったとしても・・・








END








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