依頼を片付けて久しぶりに家に帰ったら、愛しい恋人の髪から淡い桜の香りがした。
彼の髪から嗅ぎ慣れない、でも私にはとても嗅ぎ慣れたその香りに自然と口元が綻んだ。

何か心境の変化?

それとも・・・
























人通りの多い大通りを避け、は狭い路地を足早に駆けてゆく。
一週間ぶりに通る薄暗いこの路地も、今は天国へと続く道のように感じてしまう。
大袈裟かもしれないが、たった三日で片付くと思っていた依頼が一週間もかかってしまったのだ。
毎晩のように電話をし、声を聞く度に早く帰りたいと思う。
優しく微笑む彼の顔を思い浮かべようとするが、いつも思い浮かぶのは不機嫌な顔。
連絡を入れていたとは言え、笑顔で迎えてくれることはまず無いだろう。
まずは怪我は無いかと心配をして。
次に眉間に深い皺を刻んで、くどくどと長い説教。
眉を下げて「ごめんね?」と謝れば、「馬鹿者が」と言ってぎゅっと抱きしめてくれる。
想像して頬がこれでもかというほど緩んでしまった。

早く会いたい。

昨日の夜に掛けた電話では、今日は依頼も無く一日家で居ると言っていた。
不機嫌な顔をする前に飛びついて、まずは彼の温もりを感じよう。
そう思うたび、体が心の奥を見透かすように、自然と地面を蹴るスピードが速くなった。








「ただいまー!」

彼が家の何処に居ても聞こえるように、大きな声で帰りを告げる。
コートを脱ぎながらエントランスを抜け、リビングへ向かう。
こんなに寒いというのに暖炉の火は落とされ、カーテンの締め切られた暗い室内はしんっとしていて寒々しかった。
おかしいなぁ・・・どこ行っちゃったんだろ。
手に持ったコートをバサリと近くにあったソファに掛けると、くるりと踵を返してリビングを出た。
コツコツとブーツを鳴らして廊下を抜けると、普段バージルがよく読書をしている部屋の扉をノックする。

しーん・・・

返事も無くただしーんと静まり返ることに首を捻りながらゆっくりとノブを回すと、抵抗も無くすんなりと開く扉。

「バージル、居ないの?」

ぐるりと室内を見渡すがあの綺麗な銀の髪は見当たらない。
ただ出掛けに片付けたはずの、ソファの隣に備え付けられた小さなテーブルに高く積み上げられた本だけが、バージルがここにいたことを証明していた。
彼が座っていたであろうソファの背をそっと撫で、一番上に置かれた一冊を手に取りぱらぱらと捲る。

「あっ」

小さな紙のようなものがひらひらと舞いながら音も無く絨毯に落ちた。
腰を折り拾い上げたそれには小さな声を漏らした。
それは長方形のシンプルな栞で。
その中心を彩るのは、桜の花びら。
バージルに好きな花は何だ?と聞かれ、間髪入れず答えた薄ピンクの花の名。

(―――花束の代わりに桜の木をプレゼントする人初めて見た。)

くすくすと笑いながらそう言うに、「俺が気に入ったからだ」と照れたような、少し不機嫌な表情で答えたバージル。
それは暖かくなるとすぐに可憐な花を咲かせ、記念にとはその花びらを栞に閉じ込めてバージルへプレゼントした。
随分昔のことなのに、まだ大事に持っていてくれたことを嬉しく思いはそっと元に戻すと、まだ会えないその人を捜す為に部屋を出た。

ダイニングキッチン、シャワールーム。
もしかして・・・と、ノックしたトイレにもその姿は見当たらず、急な依頼でも入ったのかもとがくりと肩を落としたは、シャワーを浴びるようと着替えを取る為寝室の扉を開いた。

「あ・・・」

―――珍しい

キングサイズの大きなベッドの左側で、うつ伏せになりすぅすぅと静かな寝息を立てる銀の半魔に少し驚き、すぐにクスリと笑みが零れた。
よほど疲れているのか、近付いても目を覚ます様子の無いバージルの髪にそっと指を絡ませる。
ふわりと漂った甘い香りには僅かに目を見開いた。

(―――甘いな)

そう言ったバージルが一度使ってやめた、専用のシャンプーの香り。
眉を顰めたその様子に、使うのを止めようか?と聞いたことがある。
自分で使うのは好まないが、の髪から香るこの甘い匂いは好きだと返したバージルの言葉に、はこのシャンプーを変えることもなくずっと使い続けていた。

「バージル・・・寂しかった?」

髪を梳きながらそう囁くが、身じろぎひとつせず聞こえてくるのは穏やかな寝息のみで。
今すぐこの腕の中に潜り込みたいと思うが、は自分が埃にまみれていることを思い出し、起こさないようにそっと立ち上がった。













「帰っていたのか。」

タオルで髪を拭きながら、ミネラルウォーターを飲もうと冷蔵庫に手を掛けた瞬間、背後から声を掛けられた。
振り向くと、少し眠そうなブルーの瞳と目が合う。

「バージル!ただいま!!」

床を蹴り勢い良くバージルの胸に飛び込むと、難なく受け止めてくれる腕が愛しい。
ごろごろと喉を鳴らす猫のように縋りつく。

「まったく、お前は。帰っていたのなら起こせばよかろう。」

小さく溜息を吐いた後、そう言って床へ下ろされてしまった。
ちょっと残念。
ただ、バージルの腰に回した手だけは離さず、は眉を八の字に下げ苦笑した。

「だって、気持ちよさそうに寝てるんだもん。起こすに起こせなくて。それに・・・」

言いかけて口を噤む。
その先を言えばきっと照れて余計に無口になってしまうから。

「それに、なんだ。」

「な、なんでもないよ!」

慌てて両手を振って誤魔化す。
さして気にした様子もなく、バージルはの肩に掛かったタオルをするりと抜き取ると、半乾きのの髪を掻き混ぜた。

「わっ、ぷ」

「風邪を引く。乾かしてやるから来い。」

引っ張られるようにして連れて行かれたのは、リビングのソファー。
座っているように指示され、大人しく待っているとバージルはドライヤーを手にすぐに戻ってきた。
が座っているソファーの背後に立ち、スイッチを入れるとすぐに温風が噴き出す。
バージルはの頭を撫でるようにゆっくりと髪を乾かし始めた。
優しく髪を梳く大きな手の感触と、温かい風にだんだんと瞼が重くなってゆく。

「バージルー・・・」

「なんだ?」

ドライヤーの音に掻き消されそうなほど小さく呼ばれた自分の名前にバージルは返事をするが、それ以上の言葉が続いてこない。
不思議に思ったバージルは、の髪がさらさらと乾ききったことを確認するとパチンとスイッチを切り、そのままソファーの前へと回り込んだ。

「寝たのか。」

すやすやと平和な寝息を立てるの口元は幸せそうに弧を描き、バージルもつられて口の端を持ち上げた。
起こさないように静かにソファーに腰を下ろすと、こくりこくりと小さく船を漕ぐ頭を自分の肩に凭れ掛からせる。
今自分が乾かしたばかりの髪に指を差し込むと、まるで水のように零れ落ちる柔らかい髪。
ふわりと香る甘い香りに誘われるように、白い首筋にうなじに口付ける。

―――バージル・・・寂しかった?

微睡む意識の中で聞こえたその声。

「あぁ・・・寂しかった。」

普段であれば絶対に口にしない言葉。
たった一週間と言ってしまえばそれまでの、短いような長いような微妙な期間。
だが・・・

「寂しかった」

触れることの叶わぬ代わりに彼女がいつもベッドで横になる位置で眠り、彼女の香りを求めるように彼女が使うシャンプーで髪を洗ってみた。
だが彼女が眠っていた場所もその温もりを無くし、自身から香るこの甘い香りはバージルが求めているものとは異なっており、今まで忘れていた感情がバージルの中で膨れ言葉となって溢れ出した。
未だ腕の中で眠り続けるを静かに抱き上げ、寝室へと続く階段を上る。
まだ眠りに就くには早い時間。
だがするりとシーツに潜り込み、彼女の柔らかい体を抱き込めば甘い眠りがバージルにも訪れた。

―――が起きたら、まずは説教だな。

下がった眉、皺の寄った眉間、固く結んだ唇。
そして甘い香りのするこの髪へ・・・
優しく口付け、息苦しいくらいに抱きしめてやろう。

庭で暖かな春を待つあの桜の木よりも早く、満開の笑みを見ることができるのはこの甘い眠りから覚めた頃・・・










END








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