やっぱりネイトの言うことを聞いておけば良かった、と大きく揺れる船の甲板の上で、船体を叩きつける波を頭から被りながら私は思った。こめかみに銃口を突きつけられ、かさついた太い指が喉を圧迫するように私の首に巻きついている。この手がほんの数時間前まで私の頬を撫で、優しく肩を抱いていたかと思うと吐き気がする。
 ジェイク・ロウ。私たちと同じトレジャーハンターで、私の“元”恋人。ネイトとは顔見知りだということは知っていたが、ジェイクが一方的にネイトに恨みを持っているということはついさっき知ったところで、なるほど、だから……と、私は妙に納得した。「ジェイクって……まさか、ジェイク・ロウじゃないだろうな?」と言った時のネイト険しい表情と、「あいつだけはやめておけ」との忠告を思い出す。知らなかったのだから仕方が無いじゃないか、なんて言い訳は今更で、私の強情さによって迷惑をかけたことなど、ネイトのボロボロで血の滲んだシャツと体を走るたくさんの傷で一目瞭然だった。

を放せ! このクソ野郎!!」
「おおっと、ドレイク。それ以上近づいたら、わかるよな?」

 ぐっと息が詰まる。「ネイト!」叫ぼうと開いた口からは、低い呻き声しか出なかった。悔しくて、苦しくて、下唇を噛み締める。こめかみに触れる銃口が熱を持っている。私の体温だと認識する前に、ジャリっと地面を踏み締める音が聞こえた。同時にこめかみを鈍い痛みが走る。

「ッ……ネ、イッ……」
、待ってろ! 今助けてやる!」

 ネイトも相当焦っているのか、呼びかける声が震えているように聞こえた。「ごめんなさい」なんて謝罪の言葉を彼に伝えることはできないかもしれない。そう思った瞬間、私の体は意識とは裏腹に勝手に動き出していた。

「っ……のガキが!!」

 私の首を絞める指の力が緩んだ隙を狙い腕を払いのける。足の力を抜き、背中から不快な温もりが離れたと同時に素早く体勢を立て直した。サリーから教わった護身の技を、まさか元恋人(と、すでに言いたくもないが)に対して使うとは考えてもみなかった。だが、こればかりはサリーに感謝だ。

「ガキ!? あんた今ガキって言ったわね!」
「おい、! 気持ちはわかるが今は隠れてろ!」
「っ!! 後で覚えときなさ……わッ! ちょっ! きゃあ!!」

 駆け出した私のすぐ脇を銃弾が走り抜ける。目の前に置かれた木箱の陰に滑り込みホッと息を吐いたのも束の間、異なった二つの銃声が荒れ狂う波の音に混じって響いた。そっと木箱から顔を覗かせる。敵はもうジェイク一人だけのようだ。そして、戦況はこちらにとって有利。

「さすがの俺も、の恋人を撃つような無粋な真似はしたくないんだが」
「恋人なんかじゃないわよ! 元、とも言いたくない!」

 ネイトの言葉が気に入らなくてそう声を張り上げると、ジェイクが鼻を鳴らして笑った。

「おいおい、。悲しいこと言うなよ。俺たちの仲じゃないか」
「微塵も思ってないくせによく言うわね! 私を利用したくせに!」
「利用なんて人聞きの悪い。好きだぜ、。愛してる」

 「黙れ!」そう叫ぼうとした私の声は、一発の大きな銃声によって掻き消された。顔を上げた私の目に、怒りを露わにしたネイトの表情が飛び込んできた。無意識に喉が鳴る。あんな表情、初めて見たかもしれない。「おい、ジェイク」と、低く唸るような声が聞こえた。思わず、木箱の上に乗った銃に手が伸びる。

「なんだ、ドレイク? まさかお前が、『軽々しくそんな言葉を口にするな』なんて言わねぇよなぁ?」
「そんなことは言わないさ。だが、が相手なら話は別だ!」

 ネイトが銃の照準をジェイクの眉間に定めた。撃ち抜く気だと目を瞠った瞬間、大きな波が船を大きく揺らした。高い波が甲板を覆い、体が大きく傾く。水しぶきの中で流れる視界に、私と同じように体勢を崩すネイトとジェイクの姿が入った。かすれた声が私の口から零れる。「あ」だか「いや」だか、自分でも何を言ったかわからない中、私の足は甲板から離れ、体がふわりと宙に浮いた。

!!」

 ネイトの声に、無理矢理に眼球を動かす。ダメだと声を上げるよりも早く、彼の太い腕が私の方へと伸びた。「手を伸ばせ!」とかすかに聞こえ、脳がその言葉を理解するよりも早く私は自由な左手を振り上げた。

「ぐっ!」
「くっ、うぁッ……」

 肩がミシリと音をたてて軋んだ。痛みに呻く私に、「大丈夫だ」とネイトが声を掛ける。傾く船体のせいで踏ん張りが効かないのだろうか。私の体など軽がると持ち上げてしまうネイトも、今は歯を食いしばって苦しそうだ。

「ネイト! 無理しないで!」
「大丈夫だ、! 今引き上げる!」

 私の体を波が容赦なく叩く。ミシミシと木が軋む音が聞こえた。首を持ち上げて見ると、ネイトの体を支えている甲板の手摺が大きくしなっている。

「ダメ! このままじゃネイトも落ちちゃう!」
「絶対に助けてやるから黙ってろ!」

 私の手を掴むネイトの指に力が入った。キシキシと骨が軋んで痛むが、そんなことを言っている場合じゃない。彼はきっと私の手を離さない。とにかくネイトの負担を軽減させようと、足場になる場所がないかと周囲を見回した時だった。どこかにぶつけたのだろう頭を振りながら、ジェイクが不安定な足取りでネイトへと近づいていた。額から流れた血が左目に入ったのか、唯一機能している右目でネイトの背中を睨みつけている。

「ネイト、後ろ! ジェイクが!」
「くそ! こんな時にッ……」

 ゆらりゆらりと、まるでゾンビのように近づいてくるジェイクの目には、明らかな殺意があった。手摺が壊れるのが先か、ジェイクに突き落とされるのが先か。私は咄嗟に銃を持った右手を持ち上げた。ネイトが顔を顰める。

「こっちを見なさい、ジェイク!!」

 力いっぱい叫んだ私の声に、ネイトに飛び掛ろうと身を低くしたジェイクが気付いた。首をもたげたジェイクと、手摺越しに目が合う。
 乾いた銃声が一発、辺りに響き渡った。発砲の反動で右手が大きく跳ね、力が抜けた手が弧を描いて私の体に垂れ下がろうとする。それを目で追う私の瞳に、ジェイクのブラウンの瞳が映りこんだ。信じられないとでも言うように見開かれた目は、じっと私を見つめたままゆっくりと遠ざかっていく。「ジェイク」と口にしかけた私の唇は硬く、まるで凍り付いてしまったかのように動くことはなかった。だらりと垂れ下がった右手の先で、ジェイクの体は波の狭間に飲まれて消えた。
 ゆっくりと、だが確実に私の体は上昇していく。傾いていた船体が元の角度に戻ったおかげで、ネイトの足はしっかりと甲板を踏み締めることができたようだ。

「ほら、右手も貸せ」

 ネイトの言葉通りに持ち上げた右手は、自分でもわかるほど震えていた。発砲の反動ではないことなど、普段から銃を扱っている私自身よくわかっていた。そんな私の手をネイトの左手が掴む。この手の震えは、彼に伝わってしまっているだろうか。
 すっかりと力が抜けてしまった私の体を、ネイトは両腕でしっかりと抱き締めてくれた。「よかった」と擦れた声が、私の左耳をかすめる。

「ごめ……ッ……ごめん、なさい……ネイト。わ、たしのせい、ッ……こんな、ケ、ケガまでッ……」

 声が震えて、喉が熱い。上手く言葉を紡げない唇がネイトの肩口に押し付けられ、「ごめんなさい」と言おうとした声は「ごへっ」と情けない音に変わって消えてしまった。海水が染みこんだネイトのシャツは、彼の体温と相まって生温くて気持ちが悪かった。それでも顔を離すことができなかったのは、目尻から溢れて零れる涙のせいで、泣き顔を見られたくない私は必死にネイトの体にしがみついた。

「ケガは? 痛いところはないか? ああ、ちくしょう。……俺は全身が痛いぜ」

 ネイトが座り込んだことは、体に伝わる振動と足に感じる甲板の感触でわかった。私は未だに顔を上げることができず、ネイトの膝の上に座る形で彼の首に腕を回した。必死で唇を噛み締めるが、零れる嗚咽を堪えることは出来ない。私の頭を撫でるネイトの優しい手の感触に、どくりと大きく心臓が跳ねた。「ふっ」と息が漏れ、同時に堰き止めようとしていた涙が一気に溢れ出した。

「ネイト……ッ、ネイト、ネイト!」
「ああ、わかったわかった。いいから落ち着け、
「うぅー……ネイトぉ……」

 ぐずぐずと鼻を啜りながら泣く私を、きっとネイトは呆れたように笑って見ているのだろう。また子ども扱いされてしまうと思っても、流れる涙と鼻水と引き攣る喉から零れる嗚咽は止まりそうになかった。

「ジェイクは、ありゃ因果応報ってヤツだ。お前が気に病むことはない」
「ッ……ネイト……」
、お前はよくやった。俺を守ったんだ」

 私を抱き締めるネイトの腕に力が籠もった。嗚咽で言葉が紡げない代わりに、私も力いっぱいネイトを抱き締める。あれほど荒れていた波が嘘のように静かだ。抱き締めてくれるネイトの腕の温かさと、ゆらりゆらりと穏やかな揺れが相まってとても心地が良い。ようやく呼吸が落ち着いたかと思えば、今度はどっと疲労が押し寄せてきた。ネイトの上半身に体を預け、私は重い瞼をゆっくりと下ろした。

「もうすぐサリーが迎えに来てくれる。って、寝たのか? まったく、好い気なもんだ」

 ぼんやりとする意識の中で、そんなネイトの呆れた声が聞こえた。言い返そうと口を開くが、ただ空気が零れるだけで言葉にはならない。それを良い事に、ネイトが言葉を続けた。

「次はもっとイイ男を見つけろよ」

 静かに囁くネイトの声が聞こえ、額に温かい何かが押し付けられた。

“ネイト以上にイイ男なんていないわよ”

 そんな言葉が頭を過ぎった瞬間、私の意識は完全に睡魔に飲み込まれてしまったのだった。
















 プロペラが回る大きな音に、私は眉根を寄せながら瞼を持ち上げる。「迎えにきたぞ!」と叫ぶ声は、紛うことなくサリーのそれだ。

「遅いぞ、サリー!」
「なんだってー? これでもぶっ飛ばしてきたのよ?」
「本気かよ。なんて、待ちくたびれて寝ちまったぜ。っと、サリー! そのままロープを降ろしてくれ!」

 そう言ったネイトが、私を抱きかかえたまま立ち上がった。急に訪れた浮遊感に、私の口から小さな悲鳴が零れる。

「なんだ、。お目覚めか?」

 寝起きのせいか声が出ずこくりと頷くと、ネイトが「おはようさん」と冗談交じりに言って笑った。「おはよう」と辛うじて言葉にすることができた私は、見上げたネイトの横顔に違和感を感じた。首を傾げながら、その違和感の正体を口にする。

「ネイト? なんか、顔赤くない?」
「……っ?! ひ、日焼けだろ、きっと」
「嘘。こんな真っ暗なのに?」
「嘘じゃねーよ! 日焼けだ、日焼け! ほら、しっかり掴まってろ!」
「ちょっと、ネイト! 誤魔化さなっ……きゃっ!!」

 腰を抱き寄せられたかと思えば、ぶわりと体が浮き上がった。サリーが飛行機を上昇させたのだろう。ぐらりと不安定に揺れるロープから振り落とされないように、私はまたネイトの体にしっかりとしがみ付いた。

 こっそりと盗み見たネイトの顔は、やっぱり赤かった。  







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