La storia di me e lei e loro
ベッドに横たわり昏々と眠る男を、は無言のまま見つめた。その目には哀愁の色が見え隠れしており、噛み締める唇はすっかり白くなってしまっている。
「貴方が……家当主。私の……」
その先の言葉を飲み込んで、は奥歯を噛み締めた。ギリっと鈍い音が、頭蓋骨を伝達して耳の中に響く。
「二十一年ぶりになるのかしら。もっとも、私には貴方の記憶はないのだけれど……」
噛み締めた唇を解放すれば、その口から自然と言葉が零れ出す。血の繋がりがそうさせてしまうのだろうか。今すぐに力を使えと思う反面、もう少しこのままでと訴える自分もいた。そんな風に思う心があったことに僅かな驚きを感じながら、は再び噛み締めた唇を解いた。
「恨んでいないと言えば……そうね。嘘になるかもしれないわ。でもそれ以上に私は、貴方たちに感謝をしてる。貴方たちが私を捨て……いいえ、手放さなければ、私はあの三人と出会うことはなかったのだから。パードレともカテリーナさんとも……アルカナ・ファミリアのみんなとも、ファミリーになることはなかった。でも、もしも……もしもこの家で何事もなく育ったのなら、それはそれで幸福だったのかもしれないわね。私があの夜に夢で見たことが、現実になっていたのかもしれないわ。でもそれは、例えばの話でしかなくて……それが本当に幸福かなんて言われれば……」
震える溜息と共に、「何を言っているのかしらね」とが呟く。視線は無意識に宙を彷徨い、もう口を開いても言葉が零れ出ることはなかった。寝室には似つかわしくないシャンデリアを見上げたの口から、再び重い溜息が零れ落ちた。
「本当に……何を言っているのかしら」
自嘲するように笑って、もう十分だとばかりにスティグマータへ意識を集中させた。じわりと左脇腹に熱が籠もる。せめて彼が目を覚ます前に……そう思った時だった。
「幸せなのだな」
風が吹けば掻き消されてしまいそうなほどの小さな声が、の耳へと届いた。低くしわがれた声に、の心臓がどくりと跳ね上がる。喉が締め付けられ、息が詰まった。ドクドクと鳴り止む素振りもみせない心臓を押さえつけるように、ネクタイの上からシャツを握り締め、は視線だけをゆっくりとベッドへ向ける。
「っ……!」
皺だらけの瞼に囲まれた、まるでレガーロ晴れの空を思わせるような青い瞳が、揺れることもなくを見つめていた。言葉を失いただ目を見開くに、「お前は今、幸せなのだな」と確信めいた口調で当主が問う。答えなくてはいけないと唇を動かすが、開いた口からは音になりきらない声が漏れるのみ。眉根を寄せ、悔やむように唇を噛み締めたは、たった一度だけ小さく頷いた。それが彼女の精一杯だった。下手に声を出そうとすれば、胸の奥に抑えこんだ感情があふれ出してしまいそうになる。
「幸福であれ……我が娘、」
空気に溶けるような声だった。優しく空気を震わせ、何の抵抗もなく胸に吸い込まれるような声だった。
「……ッ! お……と……」
歯を食いしばり言葉を飲み込む。空色の瞳を隠した瞼が再び開かれる時、もう彼はのことを覚えてはいないだろう。唾液を嚥下し、震える喉を叱咤する。
「トゥ……ウナ マリオネッタ ストゥピダ……」
喉が震える。声が震える。唇が……体が震える。
「貴方の……中から、私の……・の記憶を……消してッ」
スティグマータが熱をもつ。チリっと走る微かな痛みに顔を顰めた瞬間、ぐらりとの体が大きく揺らいだ。体勢を立て直そうと踏鞴を踏む足は、その抵抗も空しく膝から崩れ落ちてしまう。
「ふっ……く……っぅ……」
絨毯についた両手の間に、ぽたりぽたりと大粒の雫が零れ落ちて染みを作った。
「な、んで……涙、出るのよッ! 悲しくなんて、辛くッ……わたし、はッ……わたし……」
苦しげ声が、嗚咽の間を縫って零れる。胸に溢れる感情は、もう理性で抑えつけることはできなかった。
静まり返った寝室に、控えめなノックの音が響いた。
「そうですか」
落ち着かせるように細く息を吐き出し、ジジへと視線を戻す。
「では、私の番でございますね」
そう言って微笑むジジに、は不器用に微笑み返す。
「……ジジ。力を使う前に、ひとつ確認したいことがあるのだけれど」
瞼を持ち上げ目を細めて微笑むジジに、左手首に巻かれた腕時計を見せる。銀色に鈍く光る大きな文字盤の腕時計を見たジジの目が大きく見開かれた。はやはりと目を細める。
「ああ、お嬢様……。肌身離さずにいてくださったのですね」
そんなに大切な物を、とは時計を撫で文字盤を見つめる。「あの日……」と呟いて言葉を濁すジジに、顔を上げたが「構わないわ」と先を促した。一瞬迷いを見せたものの、ジジが再び口を開く。
「旦那様は、『せめてこの時計だけでも傍に』と……。自らが守ることができない代わりに、この時計がお嬢様の身の守りになるようにと願いをかけて籠の中へ」
何を礼を述べることがあるのか、とはジジを見つめる。言葉に出ずとも、が言いたいことを理解したのだろう。ジジは目尻に深い皺を刻んで微笑んだ。
「私は、家の執事であれたことを誇りに思っております。今までも……そして、これから先も永遠に」
の手がジジの手を掬い上げる。力強く握ると、手袋越しにその手の温かさを感じた。
「ありがとう、ジジ。たくさん……たくさん酷いことを言ったわ。本当にごめんなさい」
慌てふためくジジに、はゆるゆると首を横に振る。
「ジジ。これから先も、どうかあの人たち……、……いえ、父と母のことを、よろしくお願いします」
顔を上げたジジの目尻に涙が滲んだ。震える唇が何か言葉を紡ごうとするも、それが音になって伝わる前に、は“イル・ディアーヴォロ”の力を使ったのだった。
そっと左腕に巻いた時計に指を滑らせる。の腕には太すぎるベルトも、大きすぎる文字盤も、すっかり手に馴染んだものになっていた。自分を捨てたのだと言って憎んでいたにも関わらず、その両親が置いていった時計を手放すことが出来なかったのは、それが唯一の繋がりだったからか、それとも当主が籠めた願いのためか。
「もう、大丈夫よ」
ベルトの留め具を外す。右手のひらへと滑り落ちた時計と、軽くなった左手首。しばらくはこの手首の軽さに慣れることはできないのだろうな、と小さく笑って、当主が眠るベッドの枕元へ時計を置いた。
「おやすみなさい。良い夢を。……さようなら」
パタンと閉まる扉の音。ゆっくりと遠ざかってゆくヒールの音。それ以外の何も、エントランスホールに響くことはなかった。
「ッ! ー!!」
屋敷の門が視界に入った瞬間、駆け寄ってくる二つの影とその背後で背を向ける一つの影。言わずもがな、の幼馴染たちだ。
「ッ……デビト。私……」
の言葉を視線で制し、デビトは彼女の髪を乱すように頭を撫でた。されるがままのに、デビトは目を細める。まるで微笑んでいるかのような彼の表情に、は息を吐き出し体の力を抜いた。頭上の温もりが肩へと移動する。抱き寄せられるままにデビトの腕に収まると、「あー!!」とパーチェが大声を出した。
「あァ!? んだよ……ウッセーぞ、パーチェ」
デビトとパーチェに挟まれるようにして、が苦しそうな声を上げる。それでも二人はお構いなしだ。頭上で繰り広げられる言葉の応酬と圧迫される身体に、のこめかみがピクリと痙攣した。
「アンタたち……うるさい! いい加減にしなさい!! 苦しいでしょうが!!」
二人の胸をぐっと押しやり、その間をすり抜けたが怒鳴り声を上げる。ぴたりと同時に動きを止めるデビトとパーチェに、ルカが苦笑いを浮かべた。
「まったく、本当に仕方のない人たちですね。の髪がぐしゃぐしゃではありませんか」
呆れを含んだ声色でそう言って、ルカは駆け寄ってきたの髪を梳くようにして頭を撫でた。今にも取れそうな髪紐を解き、さらりと流れる髪を掬い上げたルカは、慣れた手付きでの髪を結う。
(ああ……間違いない。これが私の現実。私の帰る場所は……)
綺麗に結い上げられた髪を揺らし、が振り返る。視線の先の幼馴染たちが、微笑みながら小さく頷いた。
「さあ、みんな。館へ帰りましょう。夕食会に遅れてしまうわ」
そう言って無意識に見下ろした左手首。そこにはあの鈍い銀色は無く、ただ時計の形に薄っすらと残る日焼けの跡があった。そうだった、とが少し寂しそうに微笑む。
「どうした?」
言葉を濁しが歩き出した。その返答に納得していないだろうデビトも、今はただ黙ってのあとをついて歩く。
丘の上から見下ろすレガーロの海に日が沈む。
仲良く伸びる四つの影が、坂の下へと向けて動きだす。
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