La storia di me e lei e loro 
< 私と彼女と彼らの物語 >
19...たいせつな宝物







 目が覚めてまずやることと言えば、自室のカーテンを勢いよく開けること。眩しい光を体いっぱいに浴びて初めて、ああ一日が始まるのだと実感するからだ。
 軽くシャワーを浴び、薄く化粧を。それからクローゼットを開けると、着慣れたスーツがピシリと背筋を伸ばすようにハンガーに掛けられている。前日に自分で用意をしたものだ。ローザのシャツに袖を通し、タイを結ぶ。その手がそのまま、当たり前のように木製のジュエリーケースへ伸びた。
 が所持しているアクセサリーの数は少なくはない。ピアス、ネックレス、ブレスレットに指輪。所狭しと並んだアクセサリーたちが、自己主張をするようにキラキラと輝いているが、彼女の手は迷うことなくケースの中心へと伸びる。まるで特別扱いするかのようにケースの中心に置かれているのは、がいつも身に着けているネクタイリングだ。シルバーの台座にピンクダイヤモンドがはめ込まれたそれは、一目で高級なものだとわかる。毎日磨いているだろうか。くもりひとつないそれを身に付けたの口角がわずかに上がった。ジャケットを羽織ると、自然と身が引き締まる。ふぅっと小さく息を吐き出したは、そこであることに気づいた。

「昨日の夢……どんなのだったかしら」

 小さな独り言は誰の耳に入ることもなく、部屋の隅に吸い込まれて消える。内容はすっかりと忘れてしまったが、悪夢ではなかったに違いない。こんなにも心穏やかな朝は一体いつぶりだろうか、と微笑む。
 さあ、一日が始まる。とてもいい気分だ。





 あっさりと終わってしまった午前の執務に手持ち無沙汰になったは、部下たちの勧めで少し早い昼食を摂りに市場へとやってきた。
 プランツォと言えばフィオーレ通りと思われがちだが、市場にも美味しい店はたくさんある。中でもパニーニの屋台は絶品だ。今日はそこにしようと決め足取り軽く市場を歩くを、涼やかな声が呼び止めた。

「チャオ、!」
「あら、ベアータ。チャオ」

 魚屋の娘のベアータが、店先で手を大きく振っている。手を振り返しながら近づくと、なぜか彼女はそわそわとの周囲を窺い始めた。小さな声で「残念……」と呟く声も聞こえる。クスリと思わず笑ってしまったは、「ごめんなさいね」とベアータの肩に手を置いた。

「え? や、やだ。……な、何が?」
「デビトなら、イシス・レガーロにいると思うわよ?」
「な、ななな! べ、別にそんな……」

 何を今さら誤魔化す必要があるのか、とは心の中で溜息を吐いた。彼女のベッロ好きはレガーロ島内でも有名なのだ。苦笑いを浮かべながら、は真っ赤になったベアータに「いくら幼馴染でも、四六時中一緒にはいないわよ?」と言う。「……そうよね」と答えることによって彼女は、デビトが一緒ではと期待していたと白状したのだった。

「また夜に会いに行けばいいじゃない。ほぼ毎晩いるんだから。ほんっと、たまには溜まった書類の整理をして……ッ!?」

 愚痴を零していたの眉が、不意にぴくりと跳ね上がる。口を噤み振り返った彼女に、ベアータが「どうしたの?」と首を傾げた。

「ごめん、ベアータ! また今度ね!」
「え? あ、!」

 踵を返し駆け出したに、ベアータのみならず市場にいた全員が「なんだなんだ」とざわつく。そんな空気も露知らず、は市場を駆け抜けるのだった。



 跳ねる息を整えながら、裏通りへ足を踏み入れる。表通りの喧騒が嘘のように静かで薄暗い裏通りは、安物のタバコの臭いが微かに残っていた。カツンとヒールを鳴らしながら、奥へ進んで行く。

「こんなところで何をしているのかしら? てっきり島外追放になったものだと思っていたけれど」

 積み上げられた木箱の陰に向かっては声をかける。真っ黒で何も見えない物陰から、ゆらりと一人の男が姿を現した。肩口まで伸びた濃い茶色の髪と無精髭は相変わらずだが、前回会った時よりも幾分か頬がこけたように見える。「あら、痩せた?」と嫌味ったらしく言えば、吊り気味の青い目が鋭く光った。

「悪魔のような女に騙されてな。そりゃひでぇ目にあったぜ?」
「あら、それはお気の毒様ね。悪魔のような女だなんて、絶世の美女じゃなかったかしら?」

 チッと舌打ちの音が聞こえる。苛立たしげな空気を隠すことなく、男――マルヴェロはを睨みつけた。一方のは、あからさまな敵意を向けられているというのにどこ吹く風だ。薄っすらと塗ったグロスで濡れた唇は、綺麗な弧を描いている。

「それで、マルヴェロ。質問の答えは?」
「チッ……」
「あら、態度が悪いわね。私は別にいいのよ? 前みたいに眠らせて、聖杯に連れてってもらうだけだから」
「わぁーったよ! ったく、かわいくねぇ女だな」
「あいにく、かわいいよりも綺麗の方が嬉しいタチなの」

 ああ言えばこう言う、とばかりにマルヴェロが顔を歪ませる。彼の口から大きな溜息が零れた。身を守るように組んでいた腕を解き、付き合ってられないとでも言いたげに手を上げる。

「なんでも屋は廃業したんだよ。てめぇらに目ぇ付けられちゃ、商売上がったりだ。ったく、あんなジジイに関わっちまったせいだぜ」
「それはあんたの自業自得でしょ? 彼の捜していた人間がアルカナ・ファミリアの一員だったってわかった時点で、手を引けばいいものを。どうせ報酬に目が眩んだんでしょ?」

 マルヴェロが、ゲーっと吐く真似をする。どこまでも小さい男だと、は呆れたように息を吐いた。きっと彼の前科と経歴を考慮した上で、聖杯は釈放を決めたのだろう。前科は多いが、言ってしまえばどれも取るに足らないことばかりだ。遠回しに島外へ行くように勧めはしただろうが、追放処分となるには犯罪経歴が足りなかったらしい。

「マジで嫌な女だぜ……」
「褒め言葉として受け取っておくわ。ところで、マルヴェロ?」
「あぁ? まだなんかあんのかよ」

 めんどくさそうに舌を打ったマルヴェロは、相変わらず綺麗な笑みを浮かべるをちらりと横目で覗き見た。ぴくりと細く整えられた眉が上がり、こけた頬を汗が伝い落ちる。のライトグレーの瞳が鋭く光った。

「その後ろ手に持ったナイフはなんなのかしら?」
「……ッ! チッ!」

 投げナイフを構えるよりも、マルヴェロが踵を返す方がわずかに早かった。「待ちなさい!」と声を上げる間も、痩せた背中は見る間に小さくなっていく。裏通りのこの先を抜ければ港に繋がっている。隠れられては厄介だと、はマルヴェロの背中を見失なってしまう前に駆け出した。



 昼過ぎの港は静かなものだった。水揚げも終わり、漁師たちも一息吐く時間。空高く飛ぶガッビアーノの鳴き声が聞こえ、防波堤に波が打ちつける音が響いている。今日も気持ちの良いレガーロ晴れで、だからこそは、そんな穏やかな空気が流れる港をなぜこうも全速力で走らなければいけないのかと悪態を吐きたくなった。

「待ちなさいって言ってるでしょ! 往生際が悪いわよ!」
「くそっ! 待てっつわれて待つ馬鹿がいるかよ!!」

 ありきたりなマルヴェロの返事に、は苛立たしげにこめかみを痙攣させる。袖に仕込んだナイフを投げつけて足止めをしようかと考えるが、港には人通りがないわけではないのだ。アルカナ能力とて万能ではない。意識を集中させている間に、逃げられてしまう可能性だって否めない以上、追いついて捕まえるしか方法はなかった。こんな時に棍棒も聖杯も何をやっているんだと八つ当たりをしながら、は走る速度を上げる。いい加減にしろと声を上げかけた瞬間だった。

「どけ、ガキが!!」

 ドンっと何かを突き飛ばすような音と目の前の光景に、は大きく目を見開いた。状況を理解しきれていない小さな悲鳴の後に、女性の甲高い悲鳴が港に響く。

「なっ……!」

 逃げて行くマルヴェロの背後で、少年の小さな体が宙を舞っていた。彼の後ろに地面はなく、このままでは海へ落ちてしまう。咄嗟に足を止めたは、少年へ向かって港の石畳を強く蹴った。防波堤の向こうに消えようとする小さな体を両腕で抱きとめ、しっかりと頭を抱え込む。海面が近づいた瞬間、誰かが自分の名前を呼んだ気がしたが、それが誰かと確認する前に冷たい海水が全身を包み込んだ。
 飛び込んだ勢いで沈む体を立て直し水を蹴る。その勢いで右足のピンヒールが脱げてしまったが、そんなことに構っている暇もなく海面へと急いで上がる。ばしゃりと大きな音を立てながら顔を出すと、腕の中の少年が大きく咳き込んだ。

「ハァッ……ハァッ……、だい、じょうぶ? なっ、ちょっと……!」

 跳ねる息を整えながらできるだけ優しく問いかけるが、突然の出来事に軽いパニックに陥ってしまったようだ。ばたつく足が膝に当たり、もがく腕がの体や顔を叩く。「暴れないで」と言ったところで、その声は届いていないようだ。

「大丈夫か、!!」
! 待って、今引き上げるから!!」
「リベルタッ……ぷぁっ、……パーチェッ!」

 少年の体が沈まないように必死で水を蹴る。手を伸ばすパーチェの後ろに、今にも泣き出しそうに顔を歪める女性の姿があった。きっとこの少年の母親なのだろう。

「あとちょっと! ぐぅぬぬぬ!!」

 手を伸ばすパーチェに向かって少年を抱え上げるが、体が離れるのが恐いのか、少年の手がの胸元を必死の様子で掴んだ。ぐっと首が絞まり息が詰まる。だが、それは一瞬の出来事だった。しゅるりと絹が擦れ合う滑らかな音が耳に届く。「あっ」と小さく漏らした時には、少年の体はパーチェの腕によって引き上げられていた。ゆっくりと上がっていく少年の右手から、海水を含んだせいで鈍く光る黒のネクタイが垂れ下がっていた。

「あっ……」

 もう一度が声を漏らす。無意識に右手を首元に当てるが、指先には濡れて肌に張りつくシャツの感触しかなかった。

「なっ、え!? ッ!?」

 驚いたようなパーチェの声を背中に受けながら、は形振り構わず海の中へと潜った。勢いでもう片方のピンヒールも脱げてしまい、燦々と降り注ぐ太陽の光のおかげで明るい海水の中を沈んでゆく。だが、彼女の目は別のものを追っていた。それは、この深い海に沈んでしまったのならば見つけるのは不可能なほど小さなもので、だからと言って簡単に諦めることもできない大切なものだった。
 唇の隙間から空気が漏れ、小さな気泡となって海面へと上がっていく。息が苦しくなるが、それでもは海底へと向かって水を蹴り続けた。

「ッ!!」

 足首を掴む手の感触に、はびくりと肩を跳ね上がらせた。驚きのあまり、肺の中の空気がごぽりと溢れ、大きな空気の塊を作る。ぐんっと足を引っ張られ、勢いよく体が浮かび上がってしまった。邪魔をされたことへの苛立ちを隠すことなく顔を上げたの瞳に、彼女以上に苛立ちを露わにした金の瞳が映りこんだ。
 何故ここに彼がいるのかと考えるより早く、デビトの手がの腕を掴んだ。振り払おうと力を入れるが彼の手はそれを許さず、体はぐんぐんと海面へ上がっていく。
 意思とは裏腹に体は酸素を欲していたようだ。海面から顔を出すと同時に激しく咳き込み始めたの姿に、気が気じゃない様子で見守っていたリベルタとパーチェ、それにいつの間にか集まっていた島の住人たちが安心したように息を吐いた。人だかりの中には、見回りをしていたのだろうフェリチータとルカの姿もあった。

「バカか、テメーは!!」

 抵抗することなく引きずり上げられたをパーチェたちが気遣う中、一人海から上がったデビトが怒鳴り声を上げた。「まあまあ」とルカが宥めるが彼の勢いは止まらず、力なく座り込むに向かってさらに声を荒げる。

「落ち着いてください、デビト! このままではもあなたも風邪を引いてしまいます。まずは館に戻りましょう。怒るのはそれからでも遅くないでしょう? ほら、も。いいですね?」
「…………」
「チッ……」

 ルカの言葉に微動だにしないの隣で、デビトが大きく舌を打つ。相変わらず呆然と座り込むの頭上に、ふたつの影が覆い被さった。

「あ、あの……。息子を助けていただき、本当にありがとうございました! なんとお礼を申し上げれば良いのか。ほら、あなたもちゃんとお礼を言いなさい」
「おねーちゃん、ありがとう! それから、コレ」
「…………ッ!」

 の目が大きく見開かれる。差し出される少年の手に向かって、まるで飛び掛るようにが立ち上がった。「わっ!」と少年が声を上げる。少年の手をすり抜けたネクタイには目もくれず、は彼の手ごとその手の中にある物を握り締めた。

「よかっ……よかった……あった……っ」
「おねーちゃん?」
「あっ……ご、ごめん。痛かったでしょう?」

 ハッと顔を上げ正気を取り戻したが慌てて少年の手を離すと、少年は「だいじょうぶ」と笑って首を振る。そして、再びに向かって手を差し出した。広げた手のひらの上に、ころんと小さなネクタイリングが転がる。の口から安堵の溜息が零れた。

「……ありがとう。これ、とても大切なものなの」

 そう言って微笑むと、少年も嬉しそうに笑う。その背後で何度も礼を述べる母親に、巻き込んだことへの詫びの言葉を述べたは、こうなった原因を作った男のことを思い出し顔を歪めた。

「マルヴェロのヤツ……」
「あの男なら聖杯が取り押さえた」

 苦々しく吐き捨てるに向かって、聖杯の幹部が声をかけた。驚いたように顔を上げたの目に、ぎょっとしたように目を丸めるノヴァの姿が映った。彼の背後にはスートのうち二人が姿勢正しく立っている。恐らく、残り二人はマルヴェロの元だろう。コホンと咳払いをしたノヴァが、から視線を外し溜息を吐いた。

「それよりも、お前は早く館へ戻って着替えろ。ひどい格好だぞ」

 呆れた口調とは裏腹に、ノヴァの頬はわずかに赤らんでいた。スーツのジャケットは着たままとは言え、肌蹴た胸元には水を含んだシャツがぴったりと張りついている。彼の反応も当然のことだろう。そのことをスクーロにからかわれ、ノヴァは怒鳴りながらから距離を取った。

「わりーな、おチビちゃん。後のことは任せたゼ?」

 ほっと息を吐いたのも束の間、ノヴァの肩をデビトが叩く。ピクリとノヴァのこめかみが痙攣した。

「誰がおチビちゃんだ、まったく! お前も早く帰って着替えろ!」
「へーへー、言われなくてもそうしますよっと」

 怒鳴るノヴァを軽くあしらったデビトは、誰かが調達したのだろうタオルで髪を拭くへと近づいた。気づいたが身構えるが、構うことなくデビトはの姿を上から下まで無遠慮に眺める。そして、何の前触れもなく彼女の体を抱き上げた。

「な、何するのよ、デビト! 下ろして! 自分で歩けるわ!」
「あァ? 靴も無くして、裸足で帰んのか?」
「そうよ! 裸足でだって問題ないわよ! それに、二人揃ってずぶ濡れで目立っちゃうでしょ!?」
「もうすでに目立っちまってンだよ。手遅れだ、諦めろ」

 ぽたりぽたりと水溜りを作りながら、デビトが歩き出す。彼の腕の中で暴れていただったが、横に並んだ残りの幼馴染とフェリチータに宥められては、口を噤む他なかった。唇を真一文字に結び、不機嫌そうに顔を歪めて黙り込む。
 デビトの腕の中で、は手の中のネクタイリングを握り締めた。手のひらにはリングの感触がしっかりと伝わってくる。ほっと息を吐くと、デビトが「なんだよ」と視線を下げてきた。「なんでもないわよ」とぶっきらぼうに答えながらも、の口元には小さな笑みが浮かんでいたのだった。










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