到着を知らせる汽笛の音が鳴り響き、わいわいと楽しそうな声が前方から聞こえてくる。
 「とうちゃーく!」と、楽しそうに声を上げているのは弥だろう。「少し歩くからねー」と間延びした雅臣の声に、上がるテンションを抑えきれない侑介と椿の声が混ざる。

「元気……」

 順番に階段を降りて行くそんな彼らの背中を眺めながら、は小さく呟いた。

「大丈夫?」
「……ふらふら、する」

 容赦なく照りつける真夏の太陽のせいではない。フェリーと言えど船は船。乗り物に人一倍敏感なは、酔い止めを飲んでいたにも関わらず、そして昏々と眠っていたにも関わらず、船酔いをしてしまったらしい。地上へと降ろされた階段へと、が覚束ない足取りで近づいていく。そんな後ろ姿を見つめながら肩をすくめた要が、「」と小さな声で呼び止めた。

「今なら、俺のがお姫様抱っこで降ろしてあげるけど。どうする?」
「恥ずかしいから……いい。ひとりで降りれる」
「うわ、即答」

 傷ついたと唇を尖らせる要に構わず、船の甲板を踏み締めるように足裏に力を入れてが歩き出す。停泊しているおかげで揺れはほとんど感じないが、それでも酔いのせいか足元がふらつくのは止められない。ふらりと変な方向へ一歩踏み出したの腕を要が掴んだ。

「そんな足取りで、階段から転げ落ちても知らないよ?」
「うぅ……」

 振り向き顔を上げたの表情は不服そのものだ。わずかに膨らんだ頬に、要は苦笑いを浮かべる。

「お姫様抱っこはしないから。はい、手、掴んで」
「かな兄! 姉ェ! 早く降りてこいよー!」

 侑介の急かす声が響く。「はいはい。ゆーちゃん、ちょっと待ってねー」と要が身を乗り出してひらひらと手を振ると、「ちゃん、大丈夫? 手、貸そうか?」と雅臣が気遣いの声をかけた。

「俺一人で平気だよ、雅兄。ほら、。行くよ」
「……うん」

 こくりと頷き、差し出された大きな手を取る。
 ぐっと踏み締めた甲板は、先ほどとは比べ物にならないくらい安定しているように感じた。














「うわーっ! これがプライベートビーチ!」

 別荘に着き、荷物を置くなりテラスへと駆け出した絵麻の後ろ姿を、はぼんやりとした瞳で見つめた。元気だな、と思う。
 とて、久しぶりの朝日奈家の別荘にテンションが上がっていないわけではないが、それよりも何よりも移動でかなりの体力を消耗してしまっていた。ハァ……と大きな溜息が彼女の口から零れ落ちる。

 年に一度行われる、朝日奈家の家族行事。母、美和所有の別荘がある離島への国内旅行に、なぜが参加しているのかと言うと、美和の命令以外の何物でもなかった。
 過去に一度だけ来た時のことを思い出したは、仕事を理由に参加を断ったのだが、そこは彼女の勤める会社の社長。すぐに休みを調整し、半ば社長命令という最終手段を講じて、を家族旅行に参加させたのである。それでも無理だと言って断ることは出来たのだが――

『家族旅行に“家族”が参加しなくてどうするの? ね、あなたも私の家族の一員なのよ。だから、お願い』

 そう言われてしまっては、首を縦に振る他ない。それに美和の言葉の裏には、少しずつでも普通の生活が送れるようにとの気持ちが隠れていることも、彼女は理解していた。外出を苦手とし仕事も極力在宅で行なうが、いずれ外に出ることすらできなくなってしまうのでは、と美和が不安を感じていることも知っている。だからこその了承だった。

「大丈夫ですか、さん?」
「ぁ……キョウちゃん」
「お水をお持ちしました」

 礼を述べながら水の入ったコップを受け取ると、右京はが座るソファーの向かいに腰を下ろした。冴えない表情をしている。どこか困ったような、申し訳ないような――そんな感情が滲み出ている表情に、が首を傾げる。

「キョウちゃん?」
「あ、いえ。その……母が無理を言ったようで、申し訳ありません」

 コップを傾けていたは、突然の右京の謝罪の言葉に、わずかだが目を瞠った。そして慌てて、とは言っても動作は緩慢なものであるが、コップを置いたは「謝ることじゃない」と頭を下げる右京に向かって微笑んだ。

「わたし……今日、みんなと一緒に来られて、うれしい。わたしこそ、心配かけちゃってごめん、ね? 少し休めば平気。だから、キョウちゃんも」

 そう言ってが指さす先には、もう誰の姿もなかった。全員、海へと出掛けてしまったようだ。右京が目を見開く。

「なっ……! まったく、あの人たちときたら……」
「キョウちゃん。せっかくの旅行……怒るともったいないから。ね?」

 少しは気遣いなさいと怒りを露わにする右京をは静かに制した。彼女の浮かべる笑みに毒気を抜かれたのだろうか。眼鏡のブリッジを指で押さえ、深い溜息を零した右京は、「わかりました」と答えるとトレーを手に取り立ち上がった。

「あなたも、気分が良くなればビーチへと出てきてくださいね。せっかくの旅行、なのですから」

 そう言って微笑む右京に微笑み返すと、彼は満足したのかリビングを後にした。
 コップに残った水を飲み干す頃には、あのふらふらとする感覚は治まっていた。膝に掛けていたブランケットを丁寧に畳み、ソファーから立ち上がる。遠くから聞こえる弥の楽しそうな声に誘われるように、はビーチサンダルに履き替えると、広がる青空の下、真っ白な砂浜へと足を踏み出したのだった。





 きょろりきょろりと視線が忙しなく移動する。どこに視線をやっても飛び込んでくるのは、空と海の青と、雲と砂浜の白。その中にぽつりと一点、自然のそれとは違う色を見つけたは、迷うことなく砂浜を踏み締め近づいて行った。
 近づけば近づくほどはっきりする、黄色に白の水玉のパーカー。眩しそうに目を細めたが「ルイ?」と呼びかけるも、淀みなく動く琉生の手が止まることはなく、一点に注がれる視線がぶれることもなかった。よほど集中しているのだろう。
 琉生は夢中になると周りのことが目に入らなくなる、と誰かが言っていた。それに、何度かそんな場面に遭遇したことのあるも、彼の性格はよく知っているつもりだ。

「…………」

 砂の城を黙々と作り上げていく琉生の隣に、は静かに腰を下ろした。目の前にはすでに完成したのだろう、テレビなどでよく目にする世界文化遺産にも登録された教会がそびえ立っている。水でしっかりと固められているのだろう。これほどまでに細かく細工がされていても、ちょっとやそっとじゃ崩れそうにない。

「す、すごい……」
「ん……?」

 琉生の手によって作り上げられてゆくタージ・ハマルを見つめていたは、頭上から聞こえてきた声にぴくりと頭を揺らした。さすがに琉生も気付いたらしく、砂の世界遺産から視線を外し顔を上げる。キラキラとした絵麻の視線と、ぼんやりとした琉生の視線が交じり合う。
 琉生の手元を覗き込みながら、「これ、全部琉生さんが?」と驚きの声を上げる絵麻に、琉生が頷いた。すごいすごいとはしゃぐ絵麻と、ぴたりと動きを止めたそのままの格好で微動だにしない琉生。ああ、これは……、とはぼんやりとした目のまま琉生の横顔を見つめる。そして、くいっと絵麻のパーカーの裾を引っ張った。

「エマちゃん……ルイ、倒れる。だから、誰か……呼んできて」
「え!? た、倒れ?」

 がいたことにも驚いているのだろうが、それ以上に“倒れる”というセリフに絵麻が大きく反応を示した。同時に「そろそろ限界。暑い……」と琉生が小さく呟く。

「た、大変! 誰かー!」
「ルイ……だいじょうぶ?」

 ぱたりと倒れてしまった琉生を見て、絵麻が顔色を悪くする。大きな声を上げながら駆けて行く後ろ姿を見つめながら、は砂浜に突っ伏す琉生に声をかけるが反応はない。これは自分も誰かを呼びに行った方がいいのかもしれない。そう思って立ち上がろうとした時だった。

「あれー? じゃん。なーにしてんの?」
「こんなところに座り込んでどうしたの? もしかして、疲れた?」
「つっくん……あっくんも」

 背中に投げかけられた声に振り返ったは、こうも暑いのに仲良く寄り添う一卵性の兄弟を視界に入れると、ふたりの顔を交互に見やった後に、背後にいる琉生へと視線を向けた。椿と梓もそれにつられるように、の後ろを覗き込む。

「ルイ……倒れた」
「うわっ! 琉生のやつ、またかよー。どうすんの?」
「日陰に運ぶ……けど、わたしひとりじゃムリ」
「だろうね。それじゃ、椿。頼んだよ」

 事も無げにそう言う梓に「え!? 俺ひとりで!?」と椿があからさまに顔を歪めた。

「冗談だよ。僕は左から抱えるから、椿は右からお願い」
「りょーかい!」

 軽々と持ち上がる琉生の背中と、それでも持ち上がりきらないつま先が描く二本の線を眺めたは、彼らが進むよりも遥かに遅いスピードで三人の背中を追う。

「あ、さん! 琉生さんは、」

 大丈夫ですか? と続くであろう言葉は、の指さす先へと飲み込まれて消えた。椿と梓に支えられて引きずられる琉生の姿に、絵麻が安心したように息を吐く。肩が大きく上下している。必死で誰かを呼びに行ってくれたのだろう。

「ありがと、エマちゃん」
「え? あ、いえ……そんな」

 恥ずかしそうに頬を染めながら謙遜する絵麻に、の口元が自然に綻んだ。

「雅臣さんがすぐに来てくださるそうです。あ、パラソルの下についたみたい。私も行ってきますね」
「うん。そうして、あげて。わたしも……そろそろ暑いから、コテージ戻る」

 そう言いながらは空を見上げた。サンサンと照りつける太陽に目を細めながら、このままでは琉生の二の舞になってしまいそうだと呟く。フェリーでの様子を知っている絵麻も「ムリしないでくださいね」と、少し心配そうだ。「だいじょうぶだよ」と微笑むと、またもやホッと胸を撫で下ろす絵麻に、優しい子だなぁとは思う。

「あ、そういえば、要さんがさんのこと探してましたよ」
「……カナちゃんが?」
「はい。あ、でもコテージに戻るなら、そう伝えてきましょうか?」

 そんな絵麻の申し出に、はふるふると首を横に振った。倒れそうだと思っても、今すぐどうこうという訳ではない。自分が要のいる場所へ向かった方が早いだろう。そう思ったが「カナちゃん、どこ?」と絵麻に尋ねた時だった。ふっとと絵麻の間に影が出来る。

「ここだよ」

 唐突に頭上から降ってきた声に、絵麻が小さく悲鳴を上げた。勢いよく顔を上げ「要さん!?」と叫んだ絵麻は、驚きすぎたのか声を上擦らせている。

「るーちゃん、また倒れたんだってね」

 苦笑交じりのその声はまるで、年に一度の恒例行事だとでも言いたげだ。目を瞬かせていた絵麻も、つられてか苦笑いを浮かべた。
 パラソルが立てられた方から「るいるい、しっかりしてー!」と必死に呼びかける弥の声と、「はいはい、大丈夫だから」と落ち着いた様子の雅臣の声が聞こえてくる。弥の声に心配になったのか、「私も行ってきます」と言って絵麻も駆け出してしまった。
 砂浜に残された二人の間に、わずかな沈黙の時間が流れる。ザァっと波の音が聞こえる中、先に口を開いたのはだった。

「カナちゃん。わたしのこと……探してた?」
「ん? ああ、そうそう。わたがお前と遊びたいってごねるもんだから。って、言ってもまあ……それどころじゃないでしょ」

 「るいるいー!!」と弥が絶叫する。本人は至って真面目なのだろうが、ここまでくれば小芝居の域だ。
 ぷっと吹き出したのはどちらが先だっただろうか。

「任せといて大丈夫そうだね」
「うん。まーくんがいれば、安心」

 同じことをパラソルの下の椿も思ったのだろう。絵麻の手を取り、浜の向こうを指さしている。声は聞こえないが「もうへーきっしょ? 絵麻も一緒に遊びに行こう」とでも言っているのだろう。梓も溜息を吐いてはいるが、どこか満更でもない様子だ。

「さてと、俺たちはどうしようか。コテージに戻る?」

 絵麻との会話を聞いていたのか、そう尋ねてくる要に、は一瞬迷う様子を見せるも、すぐに首を横に振った。

「戻るのもったいない……カナちゃんと、一緒がいい」

 てっきりコテージに戻るものだと考えていた要が、の答えにきょとりとする。が、それも一瞬のことだった。ぽかんと開いていた口を閉じ、きゅうっと口角を持ち上げる。弓形に細められた目が嬉しそうだ。

「それじゃ、向こうの浜辺を散歩しようか」
「うん」

 目の前に差し出された手をきゅっと握る。朝のそれと変わらない大きさと温かさに、の頬がほわりと緩んだ。







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