目が冴えて眠れない。無理矢理に瞼を下ろしてみても、内側では眼球があっちへいったりこっちへいったりと忙しない。
 暑くて寝苦しいわけではないし、騒音でもあるのかと尋ねられても、答えはノーだ。むしろ、開けた窓から入ってくる風は涼しく、微かに聞こえてくる波の音も耳に心地良い。宛がわれた部屋のベッドだって、ふかふかでとても寝心地が良かった。肉厚のマットに、さらりとした麻のシーツ。頭を乗せている枕も、羽毛が入っているのか、もふりと包み込まれる感じが最高だ。
 それでも――それほどまで睡眠に適した環境であっても、今のを睡魔が襲うことはなかった。

(昼が……こうなら、いいのに)

 何が変わるわけでもないが、思わず心の中で毒づいてしまう。大きく吸い込んだ息が、溜息と化しての口から零れ出た。このまま目を閉じていればいつかは眠れるのだろうが、それもなんとなく癪に障る気がする。

(……温かいお茶、飲もう)

 枕元に置いた携帯電話を手に取り時間を確認したは、もぞもぞとベッドから這い出ると、階下にあるキッチンへと向かった。



 午前一時半。
 しんと静まり返ったキッチンとそこから続くリビングルームには、人影ひとつ見当たらない。昼間あれほど海で遊んで、夕食後にはトランプゲームで騒いでいた兄弟たちは今頃、穏やかな眠りの中だろう。ここからはオトナの時間だよ、なんて言って酒盛りを始めた成人組も、日付が変わる前から瞬きの回数が増えていた。椿なんて缶ビール一本を飲み干した時点から、梓に寄りかかってうつらうつらとしていたな、とは数時間前のことを思い出す。

「みんな、楽しそうだったな」

 ふふっと笑いながら電気ケトルのスイッチを入れ、ついでに窓を開ける。スツールに腰掛けたは、上半身をキッチンカウンターに預けると、聞こえてくる波の音に耳を傾けた。ぼんやりと眺める窓の外は暗く、何も見えない。

 ザァ……ザァ……

 耳を撫でる音に誘われて、とろりと瞼が落ちてくる。いつの間にか傾いていた頭が、まるでここが居場所だと言わんばかりに、両腕の上にコテンと落ちる。逆らうことなく体の力を抜くと、睡魔が両手を広げて歓迎してくれた気がした。
 電気ケトルが『お湯が沸いたよ』と電子音で知らせる。だが、それがの耳に届くことはなかった。



 目の前に広がる光景に、は目を見開いた。

 これは、夢、なのだろうか。

 青い空と青い海。足元を撫でる冷たい海水。下ろした視線の先で、波に流された砂が足を隠すように積もっていく。頬を撫でる風も、容赦なく照りつける太陽の光も、潮の香りも。偽物と――夢と呼ぶにはあまりにもリアルすぎて、は混乱したように周囲を見回した。ここは昼間、要を散歩した浜辺だ。視線の先にある奇妙な形の岩に見覚えがある。
 ふと、は自分の両手に目をやった。いつも長袖に隠れて見えない両の手首が、太陽の光にさらされている。さらに上へと視線を辿らせると、手首よりも白い二の腕が映った。肩口まで辿った視線が、肌を這う黄色い紐状の何かに誘われ胸元へと移動する。年齢のわりに寂しい胸元を隠す黄色い布は確か、旅行前になんとなく眺めていたファッション誌に掲載されていた新作の水着だ。いいなと思ったが、着れるわけがないと諦めたことを思い出す。

「……ッ」

 息を飲んだが、胸元から一気に脚へと視線を飛ばした。嘆息にも似た溜息が彼女の口から零れ落ち、寄せては引く波へと吸い込まれて消える。

(やっぱり、夢……あたりまえ、か)

 まるで故意に作ったかのような、生白くて細い脚。骨張っていて膝の皿がくっきりと浮かび、薄い皮膚の下に張り巡らされた血管が目立つ脚を、いつまで経っても見慣れることはないのだろうと、は常日頃から思っていた。そしてそれ以上に見慣れることができないものが、そこにあるはずだった。
 足首からふくらはぎと、膝から太ももを走る二本の縫合痕。もう片方の脚には、地図のように広がった火傷の痕がうっすらと残っているはずなのだが、の目に映る脚は綺麗なものだった。傷ひとつなく白く滑らかな皮膚に、これは現実ではない、という現実に引き戻されてしまう。脚から臀部を通って背中にまで広がっている火傷の痕も、きっと今なら綺麗なものなのだろう。
 ああ、これが現実ならばと嘆くように、の顔がくしゃりと歪んだ。

 あの日、両親と出かける約束なんてしなければ……
 車になんて乗らなければ……
 事故に遭わなければ……
 自分だけ助からなければ……
 あの時……一緒に……

 波に撫でられ続ける足を一歩踏み出す。ぱしゃんと海水が跳ね、綺麗なふくらはぎを濡らした。ぱしゃんぱしゃんと、水が跳ねる音は止まない。そのうち音は、ざぶざぶと乱暴に水を掻き分けるそれに変わった。水の抵抗が煩わしいとばかりに、の両腕が海面を叩く。

 ざぷん

 小さな音と共に、の体が海中に沈んだ。口から肺から漏れる空気の音だけが耳に届く。息苦しさを感じる暇もなくの意識は体と共に深い海の底に飲み込まれてしまった。







「…………ぃ……おい……起きろ、
「ぅ……っ…………うぅ……」

 わずかに開いた口から、苦しそうな呻き声が零れた。額にびっしりとかいた汗のせいで、前髪が束になってはりついてしまっている。肩を抱く腕に伝わる微かな震えと、呻き声の合間に上がる小さな悲鳴を止めるために、要はの名を呼びその体を揺すり続けた。

 キッチンへと足が向いたのは偶然だった。冷房も入れず窓を開けただけの部屋は暑くて寝苦しく、喉の渇きで目が覚めたのだ。
 水を飲もうとして階段を降りると、リビングのドアの隙間から光が微かに漏れていた。まだ誰か起きていたのかと首を傾げながらドアを開けると、明かりが点いていたのはリビングではなく、そこからさらに奥のキッチンで。
 明かりが点いているのにも関わらず静まり返ったキッチンに、「誰かいる?」と声をかけながら入った要は、スツールに腰を掛けキッチンカウンターに突っ伏して眠るを見つけたのだった。彼女の隣には数分前に沸いたのだろうお湯が、電気ケトルの口から湯気を上げてその存在を主張している。状況を飲み込んだ要が小さく溜息を吐き、そして――

「おい、! 起きろ!」
「……ぁ……ッ!」

 声になりきらない小さな悲鳴がの口から漏れ、固く閉ざされていた瞼がいきおいよく持ち上がった。安堵したように息を吐く要の傍らで、ハァハァと荒い息を繰り返すは、今の自分の状況がわからないとでも言いたげに視線を彷徨わせた。

「大丈夫か、?」
「……ぁ……カ、ナ……」

 息も絶え絶えに声を発するの背中を、要の手がゆっくりと撫でる。「とりあえず深呼吸しろ」と、手を止めずに言う要には素直に従った。大きく息を吸い込むと、くらりと目眩がした気がした。ゆるりゆるりと背中を滑る要の手の動きに合わせて、の肩が上下に揺れる。

「カナちゃん……? あ、れ……?」

 数回の瞬きの後、の口から零れたのはそんな情けない言葉だった。呆れとも安堵ともつかない溜息を吐いた要が、「あんなとこで寝てちゃダメでしょ」と呟くように言う。そこでようやく、は自分が今キッチンではない別の場所にいることに気付いた。

「ここ……」
「ん? 俺の部屋」

 どこ? と問う前に、要が事も無げに答える。「正確には、俺に宛がわれた部屋だけどね」と冗談交じりな要の言葉に、は自分の眼球が動く範囲で部屋を見回した。要の肩越しに見えるオフホワイトの壁紙。グリーンを基調としたファブリックパネルと、同じ色をした観葉植物。天井から吊り下がるペンダントライトは明るさがひとつ落とされ、淡いオレンジ色の光を放っている。
 ようやく自分がどんな状況にいるのかを飲み込んだは、吸い込んだ息を細く長く吐き出した。

「落ちついた?」
「……あ、…………う、うん」

 の曖昧な返事に目を細めた要だったが、特に追求することなく「そ、よかった」と言って微笑んだ。も同じように眉尻を下げると、目の前にある要の胸板へと擦り寄る。首の下にある要の腕がぴくりと動き、の頭を支えるように抱き締めた。安堵の溜息が薄い唇から零れ、要の胸に吸い込まれて消える。

「ありがと……カナちゃん」
「ん」

 何に対しての感謝なのかなどと聞くこともなく要が頷く。心が安らいでいく。

(おちつく……カナちゃんの腕、あったかい)

 すぅっと自然に瞼が落ちてきた。襲ってくる眠気に抗うことなく、は全身の力を抜く。頭のてっぺん辺りで、ふっと微笑むような気配がしたが、それが要のものなのかと確認する間もなく、は新しい夢の中へと旅立って行ったのだった。














 すうすうと穏やかな寝息が聞こえ始め、要は今度こそ肩の力を抜いた。
 胸元で上下する小さな頭に手のひらを滑らせ、長く柔らかい髪の感触を楽しむように撫でる。身動ぎひとつせずにされるがまま眠り続けるのは、信頼されている証なのだろうか。の頬を隠す髪を梳き、さらされた白い頬へと唇を寄せる。

 ――お、とうさ……お……か、さん…………わた、し……いっしょ、に……

 乱れる呼吸の間に紡がれた、途切れ途切れのかすれた声。“一緒に連れて行って”と懇願するを無理矢理に起こして、彷徨う視線を自分へと向けさせて、微笑むを見てようやく、要は乱れていた心が落ち着くのを感じた。
 がこうやって夢にうなされるのは珍しいことではない。五年前に比べていくらかは減ったものの、それでもこうやって無理矢理起こすことは少なくなかった。苦しそうな呼吸音、額にびっしりとかいた汗、冷たく震える体。見るたびに心が掻き乱され、何も出来ない自分への苛立ちに襲われる。

……お前はいつになったら解放される? 俺はどうすればいい? どうすれば、お前を……」

 喉が詰まり言葉が途切れる。
 説法で救えるのなら、どんなに楽だろうか。そんなことで救われるのならばいくらでも説いてやるのに、それが無駄なことだと知っている要は、歯痒さのせいからかぐしゃりと顔を顰めた。

「ぅ……ん、カナ……ちゃ……」

 抱き締める腕に、無意識に力が入っていたのだろう。息苦しさからか、がもぞりと身動ぎをする。「ああ、ごめん」と小さな声で謝って腕の力を抜くと、離さないでとばかりにの手が要のシャツの胸元を強く握り締めた。たったそれだけのことで、要の顔から焦燥の色が消える。

「……救われてるのは俺の方、か」

 救ってやりたいと思う相手が自分を救っている。なんて皮肉なことなのだろうと要は思う。が、それと同時に悪くないとも思った。自嘲的な笑みが彼の口元に浮かぶ。

「カナ、ちゃん……」

 が再び要を呼ぶ。まだ夢の中だろうことが窺える喋り方に、それでも要は「どうしたの?」と答えた。覗き込んだの顔がへらりと情けないくらいに緩む。

「あったかい、ね……カナちゃ……すき……。……だいすき、だよ?」

 ぽつりぽつりと紡がれる言葉は表情と相まってか、情けなくも幸せそうに見えた。ぷっと要が吹き出す。

「あははは。なんで疑問系なの。でも……うん、そうだね。俺も、のこと、好きだよ」

 聞こえていないとわかっていても、紡ぐ言葉が止まることはなかった。頭を撫で、髪を梳き、肌の感触を確かめるように指を滑らせながら、小さな耳へ言葉を流し込んでいく。最後に耳朶にキスをすると、の肩がぴくりと揺れた。

「起こしちゃった?」

 小さな声で尋ねてみるが、から返事はない。聞こえてくるのは深い寝息のみだ。ホッと息を吐いて、再びの頭を撫でる。あれほどまでに苦しそうだった寝顔が、今は嘘のように穏やかで幸福に満ち満ちている。
 「ああ、良かった」と安堵する傍ら、「心配したんだよ」と思う気持ちも隠しきれず、相反する気持ちがない交ぜになった複雑な笑みを要は浮かべた。

「……これくらいは許してよ、

 呟きと共に零れた吐息が、の唇を撫でる。
 触れた唇はきっと自分の方が熱かったのだろう。少し冷たく感じるの唇に自分のそれを押し付けながら、要は胸の内に浮ぶこの想いも伝わらないものかと願うのだった。

 一緒に逝きたいじゃなく、一緒に生きたいと言って欲しい……と。







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