小さな欠伸をしながら、はぼんやりとした目を窓の外へ向けた。
 レースカーテンの隙間から見える外は相変わらずの良い天気で、眩しいくらいの青い空が広がっている。きっと今日の暑さも相当なものだろうが、兄弟たちはそんなこと関係ないらしい。朝食を食べ終えたものから順に外に飛び出して行った姿を、は思い出して微かに笑う。
 キィっと小さな音が耳に届いた。見上げると、天井に取り付けられたシーリングファンが微かな音を鳴らしながらくるくると回っている。その真下にある大きなテーブルには、たくさんの教科書や参考書が広げられていた。朝食の時とは打って変わって、リビングには落ち着いた空気が満たされている。

「ねぇ」
「…………」

 クーラーの効いた部屋は少し肌寒い。長袖のブラウスの上からカーディガンを羽織ったは、二の腕を軽く撫でながらロッキングチェアに深く沈みこんだ。膝掛けでも持ってこようかと考えるの耳は、ぶっきらぼうに投げられる声を拾ってはいないようだ。

「ねぇって!」

 声に苛立ちの色が滲む。それでも気づかないを、今度は静かな声が呼んだ。

さん」
「……うん?」

 名前を呼ばれて初めて、は自分の足元へと視線を向けた。毛足の短い絨毯の上にクッションを置き、その上に姿勢良く正座をする祈織が、少し心配そうに眉を下げながらを見上げている。向かいでは風斗が「起きてんのだったらさっさと返事しなよ」と、不機嫌そうに目を細めた。

「……風斗」
「ふん」

 祈織の窘める声に、風斗は更に機嫌を損ねたようだ。鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまった。こういう部分も含めて、まだまだ中学生なんだなとはぼんやりと思う。

「フート……どうした、の?」
「もういいよ」

 参考書を片手にそっぽを向く風斗に、は首を傾げながら祈織を見やった。仕方がないなと言いたげに肩を竦める祈織に、は微かに微笑んでゆっくりと立ち上がった。クッションをひとつ拾い上げ、風斗の隣に落とすとその上に腰を下ろす。

「何?」
「どこか、わからない?」

 広げられた教科書とノートを覗き込んだの瞳に、長い計算式が映りこんだ。少し癖のある字は風斗のそれで、計算の途中で止まっていることから、ここでつまづいてしまったことが見受けられた。
 トントントンと、教科書とノートを関連付けるように指でなぞり問題を把握する。ああ、なるほど。はノートをなぞっていた指を持ち上げると、今度は風斗の肩をトントンと叩いた。

「ここ……公式ちがう。この場合、公式は……」

 風斗の手からシャーペンを抜き取り、ノートの端にサラサラと薄い字で公式を書く。「当てはめてみて?」とシャーペンを返すと、風斗はしぶしぶと手を動かし始めた。
 答えが出たのか、彼の手が止まる。手元を覗き込んだはコクンと頷くと、赤のボールペンを手に取り、答えの上に綺麗な丸を書き込んだ。「よくできました」と言うのも忘れない。

「さすがだね、さん」
「そんなこと……」

 祈織に向かってふるふると首を振ると、「この程度の問題、解けない方がおかしいでしょ」と風斗が生意気な口を叩いた。

「でも、フート……解けなかった、よ?」
「うるさいな! 僕は忙しくて勉強なんかしてる暇ないの」
「風……っ!」

 声を荒げる風斗に向かって身を乗り出そうとする祈織を片手で制したは、ほわりと微笑を浮かべながらノートの横に積まれた参考書を手に取った。パラパラとページを捲りながら、風斗の横顔を覗き込む。

「忙しいのに、フートはえらいよね。この参考書……とっても難しいやつ。宿題も、こんなにたくさん。とっても、たいへん」
「……ふん。僕をそこらのイッパンジンと一緒にしないでよね。これくらい普通なの。そんなことよりも、次の問題に進みたいんだけど?」
「ふふ。うん、わかった」
「今、アンタ笑った?」
「笑ってない、よ?」

 ペンを取って教科書の問題を目で追うに、風斗は「絶対に笑った」と眉を顰めた。しかし、は気にも留めていないかのように、スラスラと重要部分に線を引いていく。「ちょっと、聞いてんの?」と怒る風斗に、は教科書を手渡した。

「はい、フート。……ここ、重要。受験にも出る、と思う」

 大きな溜息が風斗の口から零れた。「言うだけ無駄だった……」彼の表情がそんな風に物語っている。「これ以上言っても体力の無駄使いだ……」とも。
 大人しく教科書を受け取り目を通した風斗は、今度は詰まることなくノートに答えを書き始めた。静かに様子を見守っていた祈織が、ふふっと笑い声を零す。

「やっぱり、さすがだね。さんは」
「……? そんなこと、ないよ?」
「わかってないところも、さすがだと僕は思うけど」
「??」

 首を傾げるをよそに、祈織はサラサラとノートの上にペンを走らせる。

「あ……、イオくん」

 淀みなく動いていた祈織の手が止まる。真っ白な紙にグレーの罫線、その上を走る自分の字。そこに目に鮮やかなイエローグリーンが飛び込んできた。白くて細い指が字の上を滑る。

「ここ、綴り……ちがう」
「あ……ほんとだ」

 消しゴムを手に取り、英単語の一部を消す。正しく書き変えると、が小さく頷いた。

「イオくんが間違えるの、珍しい」
「そうかな?」

 「そうだよ」と微笑んだが、ペンを置いて立ち上がった。「どこへ?」と尋ねる祈織に、彼女はブランケットを取ってくるのだと答える。クーラーの風のせいで体が冷えてしまったようだ。二の腕を抱くようにしてリビングを後にするの背中を見送った二人は、また参考書やノートへと視線を落とした。
 が立ち去った後のリビングは、それはとても静かなものだった。













 胸元に感じる温もりと腕に感じる重みに、は瞼を持ち上げた。すうすうと小さな寝息が聞こえる。カーテンを閉め切っているせいか、室内は薄暗い。

「……ぅん……むにゃ……」

 寝言にもなりきらない小さな声が胸元から聞こえ、はそちらへと視線を向けた。ふわふわと柔らかい髪の毛が鼻先をくすぐる。ミルクティー色の細い髪が、呼吸に合わせてゆっくりと上下している。

「……ワタル?」
「……んー……」

 独り言のように名前を呼ぶと、腕の中に収まっていた弥がもぞりと身じろいだ。ころんと転げるように寝返りを打ち、温もりが離れる。少し痺れる腕を擦りながら起き上がり、そこでようやく状況を理解した。
 ブランケットを取りに行くと言って部屋に戻ったはいいが、そのまま眠ってしまったらしい。またちょうどいいことに、倒れこんだのはベッドの上で、ふわふわとした寝心地にすっかり寝入ってしまったようだ。ドアは開けたままで、きっと弥はそんな自分を見つけて、一緒に昼寝と思って潜り込んだのだろう。はそう自己完結する。

「今……何時?」

 ぽつりと呟いて枕元の目覚まし時計に目をやった。短針は六になる直前を、長針は十一を指している。外は少し薄暗い。もうこんな時間かと、はベッドから降りた。そろそろ右京が夕食の支度を始める頃だろう。

「ワタル……起きて、ワタル」
「んー……やーぁー……」

 肩を軽く揺すり声をかけるも、弥は一向に目を覚ます気配はない。はしゃぎすぎて疲れきってしまったのだろう。

(夕食……出来てから起こせばいいかな?)

 小さく寄った眉間の皺を指先で伸ばしてやり、は枕元に放り出されたブランケットを弥の体にかける。部屋が蒸してしまわないように窓を少しだけ開けると、雨が降り出していることに気づいた。夕立だろうかと空を見上げ、雨の匂いを吸い込む。
 明日は少しでも涼しくなるといいな。そんな風に思いながら、彼女は部屋を後にしたのだった。



 階段を降りたがまず耳に入れたのは、パタパタと慌しい足音だった。そこに「祈織はコテージ内を捜してください」だの「今、椿が昴たちに声かけに行ってる」だの、焦りを含んだ声が混じる。何かあったのだろうか。首を傾げながらリビングの扉を開くと、珍しく焦りの色を滲ませて息を切らす梓の姿が目に飛び込んできた。

「……あっくん? 何か、あった?」

 声をかけると、梓が驚いたように振り返った。「あ、」と返す声が、呼吸が乱れているせいかかすれて聞こえる。

「弥がいなくなったんです」
「ワタル?」
「雅兄と遊んでたはずなんだけど、目を離した隙にいなくなっちゃたみたいなんだ」

 普段から冷静な右京と梓が、揃って不安と焦りをその表情に滲ませている。パタパタと廊下を走る音が聞こえ振り返ると、「バスルームにも裏庭にもいない」と首を横に振る祈織が立っていた。

「雨が強くなってきました。……一刻も早く見つけましょう」

 きつく眉を寄せ、呻くように右京が言う。「あの……」とが小さな声で右京に声をかけるが、焦りのせいからか彼は気づいていないようだ。

「京兄。僕は椿たちと一緒に、海の方捜してくるよ」
「ええ、お願いします」
「僕はもう一度コテージの中を……」
「頼みましたよ、祈織」

 梓と祈織が同時に頷き、部屋を飛び出そうと振り返った。

は祈織と一緒にコテージの中を捜してくれる?」
「あっくん、あの……」
「行こう、さん」
「え? イオくん……あの、あ……」

 梓の足音が遠ざかり、祈織の手がの手を掴む。「ワタルならわたしの部屋に」と言うだけなのに、ぐいっと腕を引っ張られ喉が詰まってしまった。

「ワタルがいつ戻ってきてもいいように、私はここで待っています。さんも……どうか、お願いします」
「キョウちゃッ……あの、ちが……」

 リビングを出ようとする祈織に引っ張られ、の足が踏鞴を踏む。倒れそうになったの体を受け止めた祈織が「さ、行こう」と急かす。ようやく会話が途切れた。
 落ち着きを取り戻したが、ほっと息を吐き出す。大きく息を吸い込んでようやく、彼女は何度も口にしかけた言葉を吐き出すことが出来たのだった。







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