両開きの窓を開けぼんやりと外を眺めていた絵麻は、ふと聞こえたドアをの開閉音に誘われ振り返った。「どうしたんだ?」と、うつらうつらとしていたジュリが首を傾げる。「シー」と人差し指を立てる絵麻に、ジュリは両耳をピンと立てた。フローリングの廊下をぱたりぱたりと静かに歩く足音が聞こえる。
 足音の正体が誰なのか、絵麻にはおおよそ見当がついていた。と言うのも、この階に部屋があるのは自分とだけだからだ。兄弟たちの誰かがの部屋に潜り込んでいたのなら、なんて考えは彼女の頭にはない。
 ぱたり……ぱたり……。それでなくても小さな足音が、ゆっくりと遠ざかっていく。すっかり聞こえなくなった頃、絵麻は掛け時計へと目を向けた。夜もすっかり更け、日付はとっくに変わっている。こんな時間なのにどこへ行くのだろう。彼女も私と一緒で眠れないのだろうか。そんな風に考えながら、絵麻は立ち上がった。

『ちぃ? どこへ行くのだ?』
さん……こんな時間にどこに行くんだろ」

 ぴょんと飛び跳ね肩に乗るジュリに、独り言のように尋ねる。「トイレじゃないのか?」とジュリは言いかけるが、それよりも早く絵麻がドアへ向かって歩き出した。くんっと揺れる足元に、ジュリはしっかりと爪を立てて体勢を整える。絵麻が自室のドアを開けた瞬間、パタンと玄関が閉まる音が耳に入った。

「……外?」

 素早く階段を降りた絵麻は、の後を追い外へ出る。
 部屋の中からはわからなかったが、今夜の月はとても大きかった。そのおかげで、街灯がなくても周囲の様子を窺うことは簡単だった。昼間に遊んだまま放置されているビーチボールが、風でコロコロと転がっている。弥が砂の城を作るのに使っていたおもちゃのバケツとスコップも、砂山の隣に置かれたままだ。

『おい、ちぃ。のやつ、あそこにいたぞ』

 放置されたままの遊び道具に気をとられていると、ジュリがよそ見をするなとばかりに声を上げた。小さな爪が付いた指がビーチを指す。その先に目をやると、暗がりの中でも鮮やかなイエローグリーンのカーディガンがふわりと揺れていた。ぱしゃぱしゃと水が跳ねる音にあわせて、淡いハニーブラウンの髪も揺れている。

『何をしているのだ?』

 ジュリが問うが、絵麻が答えを知るはずもない。それでも、寄せる波を軽く蹴り上げるは、とても楽しそうに見えた。一歩進んでは波を蹴り上げて、また一歩進んで――時間をかけて波打ち際を歩くの背中を、絵麻とジュリは黙って見つめる。
 どのくらいそうしていたのか。時間にしても数分と言ったところだろう。少しだけ小さくなったの背中が、不意にぐらりと傾いた。まさか、と絵麻が息を飲む。

さ……っ」
!」

 遠くから聞こえた怒鳴り声にも似た声に、飛び出そうとした絵麻の体がぴたりと止まった。ばしゃんと大きく水が跳ねる音が響くと同時に、砂浜を駆ける足音が耳に届く。襟足の長い金髪が、走るスピードにあわせて靡いている。要だった。
 波打ち際に辿りついた要は、濡れるのも構わずしゃがみ込んだ。手を伸ばし、の体を抱き上げる。あれほど鮮やかだったイエローグリーンのカーディガンは、水を吸って鈍い色に変わっていた。

「何してるんだよ、お前は!!」

 怒気を含んだ要の声に、絵麻の肩が跳ねる。いつもへらへらとしていて軽薄に見える要は、感情をむき出しにすることなどないのだろうと、絵麻は勝手にそう思っていた。そんな彼が、咳き込むに対して言葉を取り繕うことなく声を荒げている。

「転んじゃった……じゃないだろ!? だいたい、こんな時間に何してんの!!」
「……散歩、しようかなって……」
「一人で? お前は俺に何回同じこと言わせれば気がすむの? どれだけ俺に心配掛ければ気がすむんだよ」

 要の深い溜息の後に、「ごめん、なさい」と謝る声が、絵麻の耳に微かに届く。

「無事だったから良かったけど……ただ転んだだけじゃなくって、あれが発作だったらどうするつもりだったの?」

 要の問いにが答えるが、何せ彼女の声は小さい。謝罪の言葉以外は、聞き取ることはできなかった。いや、ジュリの大きなあくびに掻き消されたと言った方が正しいのか。

『私は眠いぞ、ちぃ……』
「そうだね、戻ろっか。要さんが来てくれたし、大丈夫だよね」

 肩の上でうつらうつらとし出したジュリを抱き上げ踵を返す。背後から聞こえる安堵の溜息を耳にしながら、絵麻は明日に備えるべく自室へと戻るのだった。






「眠れなくて……ね、それで……波の音がね、聞こえて……」
「だからってね、一人で外に出ることないでしょ」

 要自身も寝付けずに自室でぼんやりとしていたのだ。呼びに来てくれれば喜んで誘われたものを、と溜息を零す。

「でも……カナちゃん、寝てると、思って……」
「ハァ……。寝てたとしても、起こしてくれればいいから。俺が怒るとでも思ってた?」

 ぶんぶんとは力強く首を横に振る。

「だったら、もう一人で出歩いたりしないで。さっきみたいなことがまたあったら、俺の心臓止まっちゃうよ?」
「ッ……それは、ダメ……」
「でしょ? だから、もうこんなことしないで。ね?」

 小さく頷くに、要は満足そうに微笑み肩の力を抜いた。も無意識に入っていた体の力を抜き、要の上半身に体を預ける。腰から下を濡らす波は冷たいが、要に抱き締められた体はそんなことが気にならないくらいに温かかった。ぐっしょりと濡れた髪を遠慮なく要の肩口に押し付け、はもう一度「ごめんね」と小さく呟いた。

「もういいよ。それよりも、そんな格好じゃ風邪ひいちゃうね。部屋に戻ろう」

 ずぶ濡れのの髪を指で梳きながら要が言う。てっきり素直に頷くとばかり思っていた要は、ふるふると横に振れる小さな頭にきょとりとしてしまった。腕をすり抜けおもむろに立ち上がるを、要は目を瞬かせて見つめる。

「もうちょっと、だけ」

 そう言ったは、海水を跳ねさせながら駆け出した。要も慌てて立ち上がり、の後を追う。早足で追いついてしまえそうなほどのスピードで走るがとても楽しそうで、すっかり止めるタイミングを失ってしまったと、要は仕方がないとばかりに苦笑した。

「ったく、このお姫さまは」

 足を速めながら、要は着ていたパーカーを脱ぐ。

「おーい、。せめてそのカーディガンを脱いで、こっちを着てなさい」
「え、でも……」

 上半身裸の要に驚くでもなく、は「それだと、カナちゃんが風邪ひいちゃう」と躊躇った。

「俺はダイジョーブ。だから、ね?」

 パーカーを差し出しながら念押しで言うと、は「いいの?」と眉を下げる。「いいも悪いも、これは命令だよ」と笑う要に、はしぶしぶと頷いた。カーディガンのボタンを外し、水を吸って重いそれを脱ぐ。下に着ていたキャミソールもすっかり濡れていて、肌に張りついてしまっている。

「ついでだし、それも脱いだら?」

 冗談のつもりだったのだろうが、には通用しなかったようだ。キャミソールの裾を掴み、一気に脱ごうとするの手を慌てて掴んで止めた要は、「冗談だから」と口元を引き攣らせた。

「カナちゃんだから……見られても気にしない、よ?」
「ダーメ。俺が気にするの」
「……そっか」

 そうだよね、と要に聞こえない程度の声量でが呟く。

(こんな……火傷だらけで汚い体……見たく、ないよね)

 しゅんと項垂れながらパーカーを着込んだを見て、要は呆れたように溜息を吐いた。の考えていることなどお見通しなのだろう。「何年お前のこと見てきたと思ってんの」と胸の内で呟いて、要はの肩を掴んで抱き寄せる。

「男に対してそんな簡単に肌見せちゃダメだよ。男はみーんなオオカミだって言うでしょ?」
「カナちゃん、も?」
「んー?」

 首を傾げながら見上げてくるに、要はニヤリと口角を上げて笑った。腰を折り、胸元にあるの頭に顔を寄せる。わずかに目を見開くにさらに笑みを深くし、要は小さな耳へと唇を寄せた。

「俺は特にアブナイよ? 今だってほら。パーカーの隙間から見える肌がすごくおいしそうで……」
「……!? カナちゃっ……」

 薄い唇がの耳朶を食み、首筋をゆっくりと滑り下りる。こくりと上下する喉にキスをしながら、要はしっかりと引き上げられたファスナーに手を掛けた。ジジ……と時間をかけて下ろすが、は抵抗しない。それをいいことに、パーカーと肌の隙間に手を滑り込ませる。海水でしっとりと湿った肌が手のひらに吸い付くようで、要は無意識に喉を鳴らした。

「ねえ、。食べていい?」

 すっかり固まってしまったは、要の腕を掴んで倒れないようにするのが精一杯だった。「ね、」と、今まで聞いたことのないくらいの甘い声が耳を撫でる。

「ッ……カ……ちゃ……」

 冗談、だよね?――その言葉が、声になっての口から出ることはなかった。代わりに出たのは、痛みを訴える呻き声にも似た声で、それに対して要は「ああ、ごめん」と悪びれることなく耳元で笑う。

「強く噛みすぎちゃったね。赤くなってる」
「カナ……ッ……」

 の肩に微かに残る歯型をぺろりと舐めた要は、ゆっくりと体を起こすともう一度「ごめんね」と微笑んだ。

「さ、そろそろ戻ろう」

 乱れたパーカーを整えながら何もなかったかのように言う要に、は状況が飲み込めないとばかりに目を瞬かせる。一体何が起こったのかと自身に問いかけるが、頭は機能を停止したかのように真っ白だ。

「あーあ、やっぱり乾いたらベタベタするね。寝る前にシャワー浴びなきゃね、
「え……あ……う、うん」

 手を引きながら先を歩く要があまりにも普段通りで、もしかしてさっきのは夢だったのかもとさえ思えてくる。
 それでも――

(いたい……)

 指先で触れた肩に感じるジンとした痛みが、これは現実だと強く主張していた。















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