La storia di me e lei e loro 
< 私と彼女と彼らの物語 >
15...幼馴染







彼女は久方ぶりに夢を見ていた。
いや、夢ならば睡眠をとる度に見ているのだから語弊となってしまうだろう。
正しくは"悪夢"以外の夢を、だ。
夢の中でのは、これ以上ないくらいの幸福に満ち溢れていた。
レガーロ島でも有数の資産家の一人娘として生まれ、厳しくも優しい両親と少し気の弱い執事と一緒の生活。
生活に不自由はない。
父が雇った家庭教師から学ぶ勉強はとても好きだった。
母は学問だけではなく作法も学ばなくてはと言っていたが、こちらは少し苦手だった。
学問や作法の勉強が終われば、街や海へ出かけることがにとっての日課。
資産家の娘だからと言って驕ったところの無いにはたくさんの友達がおり、フィオーレ通りで買い物をしたり、ビヴァーチェ広場でジェラートを食べたり、日が暮れるまで海でおしゃべりをしたりと、とても楽しい毎日を過ごしていた。
小さな島とは言え交易で栄えるレガーロ島には、毎日たくさんの人が出入りしている。
その中にはよからぬことを考える輩もいて、小さいながらもトラブルに巻き込まれたことも少なからずあった。
その度に助けてくれたのが、島を守る自警組織――

大きく目を見開いたが、勢いよくベッドから起き上がった。
ドクドクと跳ねる心臓と荒い息を整えるように深呼吸を繰り返す。
カーテンの引かれた室内は薄暗く、隙間から入ってくる陽の光もまだぼんやりとしている。

「……ッ……なんて、夢……」

薄く開いた唇から零れる声がかすれる。
顔色は悪く、吐き出す息も酸素が行き来する唇も震えている。
にとってあの幸福に満ち溢れた夢は、何度も繰り返し見た赤く染まった"悪夢"よりも"悪夢"だったのだ。
ギリっと奥歯が軋む。
痛む頭をゆるりと振り、はベッドから抜け出した。
とても二度寝などしていられない。
食堂に行っても誰もいないだろうが、カフェくらいなら自分で淹れられる。
冷たい水で顔を洗ったは、クローゼットの扉を開いた。














「おや。おはようございます、
「ッ!? ル、ルカ……おはよう」

食堂の奥にあるキッチンの扉を開くと、そこには思いがけない人物が立っていた。
物音がしていたので、マーサやメイド・トリアーデたちが朝早くから支度をしているのかと思ったのだが、そこにいたのは甘い匂いを纏ったルカだった。
彼がキッチンにいることは珍しくないのだが時間も時間。
左腕につけた時計に目をやると、短針はまだ六時に僅かに届いていなかった。
こんな時間にどうしたんだと尋ねると、ルカは自慢げに作業台の上に乗った数々のドルチェを見せてくる。
その見た目と匂いだけで胸焼けがしそうになり、は口元を歪めて苦笑いを浮かべた。

「それで? どうしてこんな朝早くからドルチェを大量生産してるのかしら?」
「よくぞ聞いてくださいました、! 今夜お嬢様がパーパとマンマと食事会をされるそうでして、そこでお出しするドルチェを考えていたんです」

それにしても作りすぎだとは呆れた視線をルカに向ける。
しかし彼はと言えば、定番のリモーネパイが良いだろうか、それともこのアランチャを使ったクロスタータの方が……と、とても楽しそうな様子で、すっかり毒気を抜かれてしまった。
小さく溜息を吐いたが、ちらりと作業台の端に視線を向けた。
そしてぎょっと目を瞠る。

「ねえ、ルカ。そっちのババレーゼ……なんか異様な色してるように見えるんだけど」
「え? ああ、これですね。実は、マンマから頂いた"マッチャ"を使って作ってみたんですが……やはり色が問題なんですよねー……」

濃い緑色をしたドルチェなど見たこともない、とは口元を引き攣らせる。
味は悪くないんですよと反論するルカだったが、彼もやはりこのおどろおどろしい色の前ではそれ以上何も言えないようだ。
「パーチェのおやつにしましょう」と、ルカは皿ごと冷蔵庫の中へ隠すように入れてしまった。

「それより……こそ、こんな朝早くにどうしたんです?」
「え? あ、うん。目が覚めちゃったから、カフェでも淹れようかと思って」
「ああ、それなら私が淹れますよ」

ルカの申し出を快く受け入れ、は作業台から少し離れた場所に腰を下ろした。
しばらくするとシュンシュンとお湯が沸騰する音と共に、カフェの良い香りが漂ってくる。

「さあ、どうぞ」
「グラッツィエ、ルカ」

目の前に置かれたデミタスカップには、砂糖も何も添えられてはいなかった。
彼女は朝であろうが食後であろうがいつもストレートなのだ。
空っぽの胃には刺激が強いからと、何度かラテや砂糖を入れようとしたがその度に断られてしまい、ルカはすっかり諦めてしまっている。

「……悪い夢でも見ましたか?」

の前に腰掛けたルカは、自分用に淹れたカフェラテを一口飲んでから尋ねた。
大アルカナとの契約の代償として、彼女が眠るたび悪夢にうなされていることを知っていた。
そのせいで忌まわしい事件が過去に起こったことも。
そうであるが故に、その尋ね方も遠慮がちなものになってしまう。

「……そうね」

の口から飛び出した声は酷く冷たく、ルカのみならず彼女自身も驚いているようだ。
目を瞬かせた後、はふっと自嘲気味に笑った。

「あれを悪夢と呼ぶ人はきっといないんでしょうけど……今まで見た中で一番の悪夢だったわ」

苦々しいものを吐き捨てるように言ったを、ルカは心配そうな瞳で見つめる。


が大アルカナと契約を交わした夜、恐い夢を見たと泣いて部屋に飛び込んできた彼女の姿を今でも鮮明に思い出すことが出来る。
お化けが出てきただとか、食べ過ぎたパーチェのお腹が破裂しただとか――初めは、ルカからしてみればかわいらしいと思える内容ばかりだった。
少しずつ彼女も成長し、泣きながら部屋に飛び込んでくることも久しくなくなったある夜のことだった。
屋敷内の誰もが気付くほどの悲鳴に、ルカも例外なくベッドから飛び起き、寝間着もそのままにの部屋へと駆けつけた。
ベッドの上で涙を流しながら暴れるをパーチェが押さえつけ、デビトは必死にの名を繰り返し呼んでいて。

――わたし……わたし……パードレを殺しちゃった……

錯乱するの口から飛び出した言葉に、ルカのみならずパーチェもデビトも言葉を失ってしまった。
それは夢だ現実じゃないと言い聞かせ、ようやく落ち着きを取り戻したかと思ったのだが、その翌日も翌々日も――の悲鳴は館に響き続けたのだった。
誰に聞いても悪夢と答えるであろう夢を見続けた彼女が言う、悪夢とは呼べない"一番の悪夢"とは。


眉根を寄せるルカに気付いたであろうが、彼に向かって手を伸ばした。

「何を考えてるのかしら、ルカ?」
「……いえ」

眉間の皺を伸ばすように動く手を取ったルカは、険しい表情をそのままにを見上げた。
ふっとが笑う。

「両親がいて、友達がいて、何不自由ない生活ができて、毎日が楽しくて……きっと、それはとても幸福なことなんでしょうね」
? 一体何を……」

まるで自分に言い聞かせるような静かな物言いに、ルカは訝しげな表情を隠すことなくを見つめる。
見る間に、綺麗な弧を描いていたの唇が震え始めた。

「ずっと嫌いだったわ。この身に宿ったアルカナも、タロッコと契約をさせたジョーリィも……ファミリーも。嫌いだった。苦しかった。……恐かった……ッ……」
……」
「……ジョーリィからナイフを渡されたあの日、これでやっと楽になれるって思ったわ。夢であったとしても、これで誰も傷つけずに済むって……ファミリーの誰も殺さずに済むって……」
……やめてください……」
「ベッドで目が覚めた時に私……恥ずかしげもなく大泣きしたのを憶えてる? あれね、本当は……」
「やめてください!!」
「……ッ!」

ルカの手がの肩を掴んだ。
痛みを感じが顔を歪めるが、彼は離すどころか掴む手にさらに力を籠める。

がそんな風に思っていたことなんて、ずっと昔から気づいていましたよ。『イル・ディアーヴォロ』が見せる悪夢に怯えていたことも、現実になってしまうのではと恐怖していたことも……それがファミリーへの負の感情に変化していたことも全部」
「じゃあ……じゃあ、ルカは私が何を望んでいたかを知っていた?」

ぴくりとルカの眉が跳ねる。
彼女の様子から導き出される答えなど、たった一つしかなかった。
そしてもう一つの事実にも気づいたルカは、静かに息を吸い込み口を開いた。

「…………ファミリーを抜けること、ですね」

少し困ったように頬を指先で掻いたは、こくりと小さく頷いた。
「やっぱりルカには敵わないわね」との呟きに、ルカは眉間の皺を解く。

「全部……過去形なんですね」
「ええ、そうよ。全部、過去形なの」

ルカがほっと息を吐き、の肩から手を離した。
勢いで倒れてしまった椅子を起こし腰を掛けたルカは、同じように椅子に座り直したの言葉の続きを待つ。
すっかり冷めてしまったカフェを一口飲み、は溜息混じりに口を開いた。

「昨日、夫人に会ったわ」
「なっ! それって……」
「ええ。自然と判ってしまうものなのね、ああいうのって。そのせいかしらね。昨晩は酷い夢を見たわ」
「……内容を、聞いても?」

遠慮がちに尋ねるルカとは反対に、はなんでもないことのように微笑んで頷く。

「資産家の一人娘。優しい両親と気弱な執事と幸せに暮らしていて、街には友達がたくさん。レガーロ島での生活はとても楽しくて、トラブルに巻き込まれたとしても助けてくれる人がちゃんといて……帽子をかぶったムッツリっぽい男に、眼鏡をかけた無駄に背の高い男。それに、眼帯をした眼つきの悪い二丁拳銃の……。それで言うのよ。『大丈夫ですか、シニョリーナ?』って、初めて会ったかのような口ぶりでね」

デミタスカップに触れた指先は震えており、ソーサーとぶつかる部分からカタカタと小さな音が聞こえた。
まだ半分ほど残っていたカフェを一気に呷る。

「物心つく頃から一緒にいたって言うのに……目が覚めた時の絶望感ったらなかったわ。パードレを……みんなを殺す夢を見た時よりも、自分で自分を刺す夢を見た時よりもずっと……ずっとずっと苦しくて恐くて、辛くて、悲しかった……」

両腕で自分を抱き締め、絞り出すような声では言う。
そっと席を立ったルカが、彼女を落ち着かせるように穏やかな笑みを浮かべながらその肩に手を置いた。

「……夢ですよ、。全部、悪い夢です……私たち四人はずっと一緒にいたじゃありませんか。のオムツを替えたのだって、おねしょした布団を干しッ……ブッ! グハッ!!」

ルカの腹部にの拳がめり込んだ。
腰を折ったルカを前に、こめかみを引き攣らせたがボキボキと拳を鳴らして立つ。

「そんな昔のことまで憶えてなくていいのよ……この馬鹿!」
「そ、そんなぁ〜……」

すごく良いことを言ったつもりだったのだろうルカは、怒るを前にしょぼんと項垂れた。
大きな溜息を吐きながら、は椅子へと戻る。
苦しそうに腹部を押さえて滲んだ涙を拭うルカを映した灰色の瞳がスッと細められた。
でもね……と、の小さな呟きにルカが顔を上げる。

「だからこそかしらね。やっぱり思うのよ。私の居場所はここしかないんだって。……『アルカナ・ファミリア』だけが私の家族なんだって当てつけのように言ってたけれど……今は違うわ。私自身が心の底からそうありたいと願っているんだって……確信できたの。ファミリーみんなと一緒にいることが私にとっての幸福よ、ルカ」
……。ええ……ええ、そうですね。そんな風に思ってもらえることが、私にとっての幸福ですよ、。そしてきっと……そこで隠れている二人にとっても、ね」

ハッとが顔を上げる。
ルカの視線を辿ると、キッチンの扉にぶつかった。
扉は静かに開き、二つの大きな影が姿を現す。

「デビト……パーチェも?」

驚いたようなの声に、一方はムスッと不機嫌そうに鼻を鳴らし、一方は嬉しそうな笑みを浮かべた。

「おれもと一緒にいれることが、とってもとーっても幸せだよ〜!」
「ちょっ、パーチェ!?」

バタバタと大きな足音を鳴らして近づいてきたパーチェが、椅子ごとの体を抱き締める。
その勢いとあまりの力強さにが苦しげに声を上げると、まるで蛙が押しつぶされたかのような声が耳元で響いた。

「パーチェ、テメーの馬鹿力でが潰れちまったらどーすんだァ? あァ?」
「ぐっ! ぐるじっ……は、はなしてデビトォ……」

首元を締め上げるデビトの腕をバンバンと叩きながら、今度はパーチェが苦しそうな声を上げる。
そんな見慣れたやりとりに、は瞬かせていた目を細めて微笑んだ。

「ン〜、イイねェ。そういう風に笑ってる方が似合ってるぜェ?」
「デビト……。ふふ、そうね。ありがとう」

目を合わせて微笑み合う。
茶化すような物言いだが、その声色にはデビトの本心が見え隠れしており、は彼の言葉を素直に受け取った。
が、しかし。
は彼の腕の中に視線を向け、そしてひくりと口元を引き攣らせる。

「ねえ、デビト……パーチェの顔色悪くなってる気がするのだけど、大丈夫かしら?」
「おっと、いけねェ」
「ああ! パーチェの顔が土気色に!!」
「ぁああぁぁ〜……目の前が……真っ暗、に……」

デビトが手を離すと同時に、パーチェが倒れる音がキッチンに響く。
目を回して倒れるパーチェと、そんな彼を見てあわあわと焦るルカ、そして呆れた溜息を吐くデビト。
相変わらずの三人を目の前にして、は思わずぷっとふき出した。
鈴を転がしたような無邪気な笑い声に、三人が同時に顔を上げる。

「なんか久しぶりだね〜。があんな風に笑ってるのってさ」
「ええ。ここのところずっと気を張っていたようでしたから」
「心のつかえでも取れたンだろーよォ」

の笑い声にパーチェの笑い声が重なり、ルカが重なり、デビトが重なる。
朝陽が差し込みすっかりと明るくなったキッチン内は、楽しそうな笑い声で満たされていた。

『アルカナ・デュエロ』まで一ヶ月をきった朝の出来事である。










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